住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2022年10月4日 - ≪今月の言葉≫
膝に置く供養の菊のかろさかな 岡本 眸
当山の十夜の日、浅草浅草寺では菊供養が行われる。
参拝者は、持参した菊花と供養された菊花を交換する。
その菊花を、膝に置いたときの気持ちである。
はかない花と我が命、仏はそれを見つめている。
2022年10月1日 - ≪法話≫
10月のお話
今回も「戒法寺の歴史」についてお話ししたいと思います。
檀信徒の皆様はご周知のように、戒法寺の大施餓鬼法要や十夜法要は毎年5月18日と10月18日に行われています。この18日という日は、観世音菩薩の縁日とされています。戒法寺の行事の日が18日に決まっているのは、実は春日局さんが奉納した「観世音菩薩像」があったからだそうです。このことが増上寺の歴史書『縁山史』に書かれています。しかし残念ながら、この観世音菩薩像は20年5月10日の空襲で焼けてしまったようです。この空襲はこの一体を全て灰にしてしまいましたが、ただ一つ、本尊阿弥陀様と江戸時代の過去帳を収めた防空壕に墜ちた焼夷弾だけが、不発弾で火を噴かず、腕が折れただけで助かっています。阿弥陀様のお徳と思わざる得ません。折れてた腕も、その後仏師の先生が見つかりに修理していただきました。この仏師の方との出会いが、十五隊の雲中供養菩薩作成につながりました。
では何故春日局さんが戒法寺に観音様を奉納されたのかと言えば、家光の乳母である春日局さんは、家光がいつも鷹狩りでこの近所の山を訪れるとき、決まってお昼ご飯を戒法寺でとっていたのではないかと推測されます。そのご縁によるものと思われます。
でもあるとき鷹狩りの最中に天候が急変し、目黒界隈から戻れなくなり、そこの農家で馳走になったのが「サンマ」でした。そのサンマを殿様は大変気に入り、城に戻って注文したところ冷めていて内蔵もなくまずかったそうです。そこで出た言葉「サンマは目黒に限る」だったようです。落語『目黒のサンマ』にも関係しています。
また北斎や馬琴と同時代の読本作家であり、寺子屋の教科書を数多く書かれていた高井蘭山という方のお墓があります。空襲で焼けて判読できませんが、門を入ったすぐ右側に移してあります。
歴史書や農家にまつわる本などが多いのですが、北斎と馬琴で人気を博した『新編水滸画伝』を、二人が仲違いしてしまい、馬琴に替わって、十二巻から最終八十巻までを執筆したことで有名になったようです。明治時代に、高井蘭山の名をかたる雑学事典が出るほど、巷で有名だったようです。お墓は二つあり、向かって右側が蘭山とその妻、左側が若くして亡くなった長男のお墓と思われます。
蘭山さんは、天保九(1839年)に77歳で亡くなられていますが、その時の記録が過去帳になく、判然としないのが残念です。
江戸の後期や明治時代など、相当荒廃していた寺の様子がうかがえます。明治38年に私ども長谷川家が戒法寺に入り、それ以後三代にわたってお守りさせていただいております。
合 掌
2022年9月1日 - ≪法話≫
9月のお話
秋の気配が少しづつ感じられ、まだまだ不安の募る中、ほっとしている今日この頃です。
大本山増上寺に残る『縁山史』によりますと、戒法寺は元和8年(1622年)に、本芝、現在の金杉橋付近に創建されたとあります。開山上人は専譽良呑上人とあります。専ら良く飲むとはなかなかすごいお名前です。その後寛永9年(1632年)に麻布我善坊谷(狸穴)に移転し29年間活動しますが、明暦の大火で焼失し、土地は甲府の大納言徳川綱重の御用地で召し上げられ、浄土真宗の金蔵寺さんにお世話になって、延宝2年(1674年)に現在の地大崎村に移転がかないます。この土地は元々増上寺の下屋敷と言われる土地で、召し上げられたときにここへの移住が決まっていたようです。結局この土地に狸穴時代共に過ごした四ヶ寺と共に移転してきたようです。
江戸期を偲ぶ物として境内に、立っている片足の「仏足石」の石碑と、その上に徳本上人揮毫の御名号の石碑があります。「仏足石」とは、釈尊亡きあと仏像を作ることができなかった時代に、その足跡を礼拝の対象として作った、最も古い信仰形態で、我が国最古の物は薬師寺にあります。通常は置き石に刻まれるため雨などで文様は消えてしまうのですが、我が寺の物は立っているので、仏の32相の一つ足跡の千輻輪等がはっきり確認することができます。ただ昭和20年の東京空襲で焼けてしまい、今はかなり朽ちてしまっているのが残念です。またその上の御名号は、江戸末期の快僧徳本上人の御名号で、名号石は全国に1500以上存在するも東京都内には6ヶ寺ほどです。徳本上人は知る人ぞ知るの人で、4歳で念仏に発願し、16歳の時から不臥・座眠(横になって寝ることなく)、食事は1日に豆粉一合という生活を、61歳で亡くなるまで貫いた方で、荒行苦行断食の不断念仏の生活は40年間以上続けたと言われ、そのことから起こった奇瑞の数は数知れないが、ただ本人は法然上人の一枚起請文のみを唯一の師として、和歌を取り入れたやさしい法話を行い、全国で大名から庶民まで多くの方から人気を博した。そういう上人です。
また以前は寺町入り口にあった「木食心譽一道上人」の石標があります。一道上人も木食とあるように徳本上人と同じ修行に明け暮れた上人で、疫病退散を願って般若心経三千巻を書写して埋蔵し般若塚を建立した人です。また、江戸中期の読本作家であり、雑学者であった高井蘭山師のお墓もあります。次回を楽しみに。
合 掌
2022年9月1日 - ≪今月の言葉≫
秋彼岸袂ひろげて飛ぶ雀 川崎展宏
コロナだ、異常気象だとふさぎ気味な日々
雀の姿を追って上を向くのも良い。
三味線の音で、気持ちを奮い立たせるのも良い。
何でも良いから、前を向いてゆこう。
2022年8月1日 - ≪法話≫
8月のお話
今月もホームページをご覧いただきありがとうございます。
住職からお話がありました通り、今月は弟子の岱忠がホームページの「お話」を担当させて頂くことになりました。今後は、偶数月には私のお話ができればと考えています。どうぞお付き合い頂ければ幸いです。
本来ですと、7月からの奇数月での担当となるはずでしたが、新型コロナウィルスの感染とそれに連なる後遺症に苦しめられ執筆することが叶わない現状がございました。自宅療養の10日間では、40℃近い熱に一週間近く浮かされ、また頭痛、めまい、咳、喉の痛みと倦怠感、今言われています症状が漏れなく現れました。唯一味覚障害がなかったことが救いでした。
熱が出てふらふらだった初期のころは、とにかく何も考えられず、ひたすらに床に臥せっておりました。今になって振り返ってみましてもただただ布団の中で横になっていたなと思う感じでした。私にとって辛かったのは熱が下がり療養期間の終える頃でした。熱が下がると意識はしっかりしてくるのですが、倦怠感は依然として残り、身体が思うように動かなかったのです。心と身体がバラバラにされたような感覚で、普段何気なく扉を開ける行動が、思っている動作と実際の身体の動きが合わず、まるで時間軸がずれたような動きになっている感じで開けるのに苦労しました。朝起きて暫くは目が覚めているにも関わらず身体を起こすのにも時差があるようで数十分は起き上がれないというような状況でした。
今まで、何も考えずともできていたような行動ができなくなるという感覚は衝撃的でした。
病などによって引き起こされる苦しみについて、今から数千年前にお釈迦さまが人間には四つの苦しみがあると説かれているのです。それが皆様ご存じの「生老病死」の四つの苦です。今回のような体験は直接的にみれば新型コロナに感染し、症状が現れて苦しいという四つの苦しみの一つなのですが、この苦しみとは実は「自分の思うようにならない」という意味そのものなのです。生きている限り、思い通りにならないことはたくさんあると思います。今回の件でも、感染したことによって自身の思い通りにならなかったことがたくさんありました。この辛い経験をポジティブに受け入れ、自分の思い通りにならないことが「あたりまえだ」と思えるように切り替えることができれば毎日の生活が楽になるような気がします。
このような心持ちに切り替えることは一人では難しいことなのかもしれません。私自身も、自宅療養中やその後の後遺症に悩まされているときに、様々な方々から支援物資や心がやすらぐことばを頂きました。誰かが苦しんでいる時にその苦しみを直接取り除くことはできないのかもしれません。しかし、助けてくれるというありがたさは、「思うようにならない」という思いから感謝の気持ちへと変わり、この経験は他の人が苦しんでいる時に「思いやれる」財産になるのだと思います。私達は、一人では生きていけないということ、自分さえ良ければということは、自身が困った時に初めて気づけることなのかもしれません。
その気づきである財産を心の中に留めておくだけではなく、行動に移すことが大事なのだと思います。私自身も行動に移せないことも多くありますが、一歩一歩、行動に移したいと思います。この行動こそが思いやりの連鎖をより多く広げられるのではないかと思います。
合 掌
2022年8月1日 - ≪今月の言葉≫
手花火を命継ぐ如燃やすなり 石田波郷
コロナにかかりし辛い日々。
そのつらさがこの私を鍛えてくれる。
そう思えたときに、病もまた人生の調味料。
苦くてまずい、なくてなならない調味料。