住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2021年9月6日 - ≪法話≫
9月のお話
東京2020オリンピック・パラリンピックが閉幕しました。
7月のはじめには国民の半数の方がその開催に疑問を投げかけた大会でしたが、政府関係者は開催を強行しました。もちろん競技自体はアスリートの人たちの努力で、すばらしい感激の連続でした。テレビで観戦しながら、その勝敗に一喜一憂しながらスポーツの力を感じ、興奮の毎日でした。しかしそのためとは言わなくても、コロナの感染爆発は起こり、今や医療機関が完全にパンクしてしまっているようです。路上に長い時間行き場を失っている救急車を数多く見かけるようになりました。
また変異したウイルスは感染の若年化が甚だしく、感染者の半数が10代・20代の若い人とのことで、子どもたちの感染が心配されています。感染病との戦いに欠かせないワクチンも、まだまだ打ちたくても打てない人が多く、政治家の言葉にかなりの違和感を覚えるのは私だけではないでしょう。
この状況下の中で不安を感じる人は多く、ワクチンの予約に何時間もパソコンに向かい続けている人も多いと聞きます。
ユダヤ教のラビ(牧師)のジョークに、友人からお金を借りていて、返済日が明日だというのに、返すお金がなく、どうしたものか夜も寝られないでいる夫に妻が、「明日お金を返せないというのなら、心配で寝られないのは先方のはずじゃない」。その一言で夫はぐっすり眠れたという。何とも無責任な夫ですね。
心配しても無駄なことは、きれいさっぱりあきらめること、それが教訓であるという。この「あきらめる」は、仏教では「明らめる」で、物事の本質を明らかにすることとある。やるべきことをやり、備えるべきものを備え、リスクをおかさないようにして生活する。
後は、いかに楽しく幸福感を持てるかがコロナ禍の生き方でしょう。 バートランド・ラッセルは著書『幸福論』の中で、「幸福とは、常識的であること、何事にも興味関心を持つこと、自己にこだわりすぎず、大地と他者に関わること」と述べ、そして何よりも「幸福は愛する人が幸福であるのを見ること」だとしています。
哲学者や思想家、そして何よりも宗教が何千年も説き続けてきた幸福は、人を支えることが一番の幸福を呼ぶということです。
お彼岸という「心の修養週間」お中日の前3日あと3日のそれぞれを布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の日としています。最初の日は「布施の日」です。布施とは相手を思いやり、支え、相手が欲していることをしてあげることです。それこそが自らが幸福になる道なのです。
合 掌
2021年9月6日 - ≪今月の言葉≫
さびしさは秋の彼岸のみずすまし 飯田龍太
オリンピック・パラリンピックが終わり、
コロナ禍に特化した日常に戻りました。
この秋は、特別さびしさが感じられます。
だからこそ、仏さまご先祖様にお参りしましょう。
2021年8月1日 - ≪今月の言葉≫
墓地越しに街裏見ゆる花木槿 富田木歩
木槿の花が毎日勢いよく咲いています。
そして毎日たくさんのしぼんだ花が散っています。
朝開いて夕方にはしぼんでしまう「槿花一朝の夢」
でも、暑い中咲いた花には活力があります。
2021年8月1日 - ≪法話≫
8月のお話
先日『いのちの停車場』という映画を見てきました。吉永小百合さんが、大病院の救急医療現場から、ある事件をきっかけに金沢の小さな在宅医療の「まほろば診療所」の医師になり、治す医師から寄り添う医師に変貌する中で、様々な患者、様々な死の現場に直面し、最後は自身の父の、壮絶な痛みの病の中安楽死を懇願する父に対し、その用意を調えながら、共に朝を迎えてゆく中で終わるラストシーンは、観ている我々も考えさせられるものでした。
現在日本では「死のタブー化」が始まっていると言われています。家ではなく病院で死ぬことが一般化し、葬儀はできるだけ簡素化され、死別の悲しみを公然と表現することが、病的な不健全なことと見なされ、日常会話で死を語ることがはばかられるという現象が起きていると言われています。
コロナの時代こうした傾向は益々加速されています。映画の中でそれぞれの人が「命の選択」を迫られたとき、最新医療に身をゆだねる人もいれば、医者には何もさせず、静かに夫婦二人で死を迎える人もいます。子どもの癌に新薬を懇願する親を、在宅医療の医師として使わないことを説得する場面は、いのちをみつめる医師の温かい姿を感じました。正しい答えが何かは誰にもわからない中で、それぞれの最後を大事にすることが求められているように感じます。同時に僧侶として、大阪の臨床仏教研究所大河内大博師が言うように、我々僧侶は「弔いの最後の番人」として死と関わって行かなければなりません。死者を主人公にして、遺族の気持ちに寄り添うことが何よりも大事でしょう。「死のタブー化」には何とかブレーキを掛けて行くことを今しなければなりません。
兵庫青山会の篠原医師は、自然な死は必要以上に怖がる必要がないことを力説しています。第一に死ぬ時は脳にエンドルフィンが大量に出て、夢見心地の状態になり苦しくないこと。第二に死ぬときは先に亡くなっている人のお迎えがあり、寂しくないこと。第三に死ぬ日にちを、自分にとっても家族にとってもいい日を、選べるということだというのです。確かに一年先とか数ヶ月先は難しくても、何日かの問題ならば可能だという例を何例も見ているそうです。
第二は正に浄土教のいう「来迎」のことで、お迎えが必ずあることを証明してくれています。
今、「死について」考え、話し合うことの必要さを感じます。そうしなければ「死のタブー化」が歯止めなくどんどん進んでしまうでしょう。それは人間の感情の損失であり、いのちを大事にしないことに進行してしまうでしょう。
合 掌
2021年7月1日 - ≪法話≫
7月のお話
コロナウイルスも変異種の蔓延が始まり、収まる様相を全く見せていませんが、オリンピックは開かれるようです。しかしそのボランティアの人たちへのワクチンもまだ打たれていないとのことで、いったいどこが安心・安全なのか首をひねってしまいます。
さて七月は入谷の鬼子母神真源寺で「朝顔市」が毎年開かれます。
鬼子母は、安産と育児の神として、日蓮宗などでは高く尊崇されています。しかし元々はインド神話に登場するハーリーティー(訶梨帝母)という人肉を喰う鬼女です。彼女の夫はパーンチカで、二人の間には500人から1000人とも言われる子どもがいたそうです。この子どもたちを養うため、ハーリーティーは毎日町に出て大好物の子どもをさらってきては食べていたそうです。町の人は震え上がり、町から子どもの姿が消えたと伝えています。そこでお釈迦様はこのハーリーティーの一番下の子プリヤンカをさらい、隠してしまいました。プリヤンカがいないことに気づいたハーリーティーは、気が狂ったように探し回り泣きわめきました。お釈迦様はそのハーリーティーに子どもを失うつらさを悟らせ、改心させたのです。人肉を食べることをやめたハーリーティーは安産と子育て、育児の守護神となって鬼子母神になったということです。
この逆の話は「阿修羅」の話です。阿修羅は元々は天界の神さま正義の神アスラでした。しかし一人娘を武勇の神インドラに陵辱され連れ去られたことで、インドラに戦いを挑み勝つことのない戦いを永遠に続けたのです。戦いをやめないアスラに対し天界の王は、天界から追放して、魔界にて阿修羅としたのです。その後の姿が愁いに満ちたあの有名な興福寺の阿修羅像です。
仏教では元々がどうであろうと、またその理由がどんなに正しくても、その後どうしたか、何をしているかでその後の姿が決まるのです。とんでもない鬼女であっても、反省し改心をして、その後多くの人々のためになる活動をすれば、それが評価されますが、たとえ神様であっても、また戦いを挑む理由が、多くの人も同情できる納得できること、正しいことであっても、その戦いを続けること、そのことが最悪なことだということです。
このハーリーティーとアスラの物語は、仏教の教えの核心を突いているように思えます。皆さんはどうお感じになったでしょうか?
2021年7月1日 - ≪今月の言葉≫
あさがほをみにしのゝめの人通り 久保田万太郎
入谷の鬼子母神真源寺では六日から八日は朝顔市が開かれる。
鬼子母は、 元は訶梨帝母という人を喰う鬼女、
お釈迦様に依って改心し、すっかり安産と育児の守護神となる。
心を入れ替えれば、鬼も変じて神になる。