住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2022年12月1日 - ≪法話≫
12月のお話
ホームページをご覧頂きありがとうございます。先月に続き今月も弟子の岱忠が担当させて頂きます。今年も残すところ一か月となりました。一年を振り返ってみますとどんな一年だったでしょうか。先月終わりにはサッカーワールドカップで日本代表が強豪ドイツに勝ち大いに賑わい、早めの忘年会など、忙しくされた方も多かったと思います。
さて、12月は「師走」と旧暦の呼び方を思い浮かべる方も多いかと思います。諸説ありますが、この師というのはお坊さんのことを指して、お坊さんが走り回って忙しくしていることが由来のようです。この師走の由来にあるように知恩院では12月の2日から4日、増上寺では9日から11日、各お寺でも12月中に日を選んで「仏名会」をお勤めいたします。
この仏名会とは、一年間の身や心の汚れを洗い流す、懺悔滅罪のために、阿弥陀仏の名号を称え礼拝する法会のことです。これはお経の中に、
「南無阿弥陀仏」と称えれば、平穏な日々を過ごせ、諸難から離れ、諸罪が消え、将来悟りが得られる。
とあることに基づいています。
年末になると、どうしてもついつい「忙しい」という言葉を口に出してしまうことが多いのですが、この忙しいという字は心(りっしんべん)に亡くすと書きます。私も自身を振り返ってみて、心を亡くしてしまったように「忙しい、忙しい…」と言ってしまっています。
確かに忙しい時もあったかもしれません。でも、それはみんな一緒で自身が忙しい時は相手も忙しいのかもしれません。忙しいという言葉を使うことによって相手をおもいやる気持ちをなくしてしまい、傷つけているかもしれません。どうやら、私は心を亡くしていたのかもしれません。
このように考えますと、私はことば一つをとっても、知らず知らずのうちに相手を傷つけているのだと思いました。自分は罪など犯していないし、懺悔するような悪いことはしていないと思ってしまいますが、それこそまさに自分の力を過信し相手を傷つけてしまっているのではないかと思います。両手が塞がり扉を開けずにいる時に、そっと手を差し伸べるといった小さなこともせず、私は、私はと、自分を優先して忙しいと言い訳している自分がいるように感じます。
私自身振り返ってみますと、このようなことが山のように積もっているように思います。その時々にいろいろな方々に支えられ助けられ阿弥陀様が見守っておられるにも関わらず私自身は気づいていないことが多いのです。未熟者の私に気づかせていただく為にも、そして、こころあらたに新年を迎える為にも、この一年を振り返り阿弥陀様の前で懺悔し、お念仏とともにこころの大掃除をしたいと思うのです。
当月18日、17時から18時頃まで、当山本堂にて礼拝し、お念仏をお称えしたいと思います。参加希望の方は、当ホームページに、ご一報頂ければと思います。
合 掌
2022年11月1日 - ≪法話≫
11月のお話
ホームページをご覧頂きありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させて頂きます。朝夕の気温が下がり、冬の訪れを感じさせる季節となってまいりました。
この時期になりますと、30年以上所属していたボーイスカウト活動の秋キャンプを思い出します。キャンプというと、夏場のイメージが強いのですが、実は野営地(キャンプ場)を中心に日中のハイキングをするには涼しく快適に過ごせ、紅葉を味わう絶好のタイミングとも言えます。かまどに薪をくべ、暖をとりながらの試行錯誤しながら作った夕食は、仲間と談笑しながらというのも相まってより楽しいひと時となります。また、秋キャンプでは虫が少なく、テントに入って大騒ぎ!ということも少なく子供たちにとっては快適にテント生活ができるようです。
新型コロナウィルスによる規制が緩和され、土日祝日ではボーイスカウト活動をしている子供たちを見かけるようになり、長年活動していた私には日常が戻りつつあるようで微笑ましく思えます。
さて、このボーイスカウトの活動は次の三つのちかいをベースに活動します。
このちかいとは、
私は、名誉にかけて、次の3条の実行を誓います。
1、仏(または神)と国とに誠を尽くしおきてを守ります。
1、いつも、他の人々をたすけます。
1、からだを強くし、心をすこやかに、徳をやしないます。
となります。
この三つのちかいを、入団式の時に皆さんの前で宣言しボーイスカウトの一員となります。国や社会への忠誠、他の人々を助ける行動や心身の鍛錬は、信仰によって成長するという姿勢を確立しようとするのがボーイスカウトの「ちかい」であり、この「ちかい」の実践・行動がスカウト活動なのです。
この実践の一つとして、キャンプ場を後にするときは必ずキャンプ場に一礼し帰路につくのです。小中学生の時は、なんとなくやっていた感謝の行動が、おこげの米を食べたこと、美味しく炊きあがったお米を満面の笑みで食べたこと、キャンプファイヤーを囲って歌い踊ったことなどなど、苦楽を共にした仲間との様々な貴重でありがたい経験が、なんとなく一礼していた感謝から時差はありますが今では心からの感謝に変わったように思えます。
「南無阿弥陀仏」と称えれば誰でも阿弥陀さまによって救われるというお念仏も、まずは口に出して称えてみるという行動が大切なのだと法然上人はおっしゃっています。お念仏を称えるという行動を積み重ねていくことによって、なんとなく救われるだろうなというおもいから、失敗や喜びを得ながら心からのお念仏になるのだとおもいます。阿弥陀さまはお念仏を称えれば必ずお救いくださいます。まずは、おおらかに、ゆったりと徐々に阿弥陀さまによって救われるというおもいを、お念仏を称えながら生活とともに育てていきませんか。
合 掌
2022年11月1日 - ≪今月の言葉≫
冬来たる 眼みひらきて 思ふこと 三橋 鷹女
澄んだ空気にあらわれて
あらためて自身を見つめなおす
様々な思いが溢れてくる
お念仏とともに
2022年10月4日 - ≪今月の言葉≫
膝に置く供養の菊のかろさかな 岡本 眸
当山の十夜の日、浅草浅草寺では菊供養が行われる。
参拝者は、持参した菊花と供養された菊花を交換する。
その菊花を、膝に置いたときの気持ちである。
はかない花と我が命、仏はそれを見つめている。
2022年10月1日 - ≪法話≫
10月のお話
今回も「戒法寺の歴史」についてお話ししたいと思います。
檀信徒の皆様はご周知のように、戒法寺の大施餓鬼法要や十夜法要は毎年5月18日と10月18日に行われています。この18日という日は、観世音菩薩の縁日とされています。戒法寺の行事の日が18日に決まっているのは、実は春日局さんが奉納した「観世音菩薩像」があったからだそうです。このことが増上寺の歴史書『縁山史』に書かれています。しかし残念ながら、この観世音菩薩像は20年5月10日の空襲で焼けてしまったようです。この空襲はこの一体を全て灰にしてしまいましたが、ただ一つ、本尊阿弥陀様と江戸時代の過去帳を収めた防空壕に墜ちた焼夷弾だけが、不発弾で火を噴かず、腕が折れただけで助かっています。阿弥陀様のお徳と思わざる得ません。折れてた腕も、その後仏師の先生が見つかりに修理していただきました。この仏師の方との出会いが、十五隊の雲中供養菩薩作成につながりました。
では何故春日局さんが戒法寺に観音様を奉納されたのかと言えば、家光の乳母である春日局さんは、家光がいつも鷹狩りでこの近所の山を訪れるとき、決まってお昼ご飯を戒法寺でとっていたのではないかと推測されます。そのご縁によるものと思われます。
でもあるとき鷹狩りの最中に天候が急変し、目黒界隈から戻れなくなり、そこの農家で馳走になったのが「サンマ」でした。そのサンマを殿様は大変気に入り、城に戻って注文したところ冷めていて内蔵もなくまずかったそうです。そこで出た言葉「サンマは目黒に限る」だったようです。落語『目黒のサンマ』にも関係しています。
また北斎や馬琴と同時代の読本作家であり、寺子屋の教科書を数多く書かれていた高井蘭山という方のお墓があります。空襲で焼けて判読できませんが、門を入ったすぐ右側に移してあります。
歴史書や農家にまつわる本などが多いのですが、北斎と馬琴で人気を博した『新編水滸画伝』を、二人が仲違いしてしまい、馬琴に替わって、十二巻から最終八十巻までを執筆したことで有名になったようです。明治時代に、高井蘭山の名をかたる雑学事典が出るほど、巷で有名だったようです。お墓は二つあり、向かって右側が蘭山とその妻、左側が若くして亡くなった長男のお墓と思われます。
蘭山さんは、天保九(1839年)に77歳で亡くなられていますが、その時の記録が過去帳になく、判然としないのが残念です。
江戸の後期や明治時代など、相当荒廃していた寺の様子がうかがえます。明治38年に私ども長谷川家が戒法寺に入り、それ以後三代にわたってお守りさせていただいております。
合 掌
2022年9月1日 - ≪法話≫
9月のお話
秋の気配が少しづつ感じられ、まだまだ不安の募る中、ほっとしている今日この頃です。
大本山増上寺に残る『縁山史』によりますと、戒法寺は元和8年(1622年)に、本芝、現在の金杉橋付近に創建されたとあります。開山上人は専譽良呑上人とあります。専ら良く飲むとはなかなかすごいお名前です。その後寛永9年(1632年)に麻布我善坊谷(狸穴)に移転し29年間活動しますが、明暦の大火で焼失し、土地は甲府の大納言徳川綱重の御用地で召し上げられ、浄土真宗の金蔵寺さんにお世話になって、延宝2年(1674年)に現在の地大崎村に移転がかないます。この土地は元々増上寺の下屋敷と言われる土地で、召し上げられたときにここへの移住が決まっていたようです。結局この土地に狸穴時代共に過ごした四ヶ寺と共に移転してきたようです。
江戸期を偲ぶ物として境内に、立っている片足の「仏足石」の石碑と、その上に徳本上人揮毫の御名号の石碑があります。「仏足石」とは、釈尊亡きあと仏像を作ることができなかった時代に、その足跡を礼拝の対象として作った、最も古い信仰形態で、我が国最古の物は薬師寺にあります。通常は置き石に刻まれるため雨などで文様は消えてしまうのですが、我が寺の物は立っているので、仏の32相の一つ足跡の千輻輪等がはっきり確認することができます。ただ昭和20年の東京空襲で焼けてしまい、今はかなり朽ちてしまっているのが残念です。またその上の御名号は、江戸末期の快僧徳本上人の御名号で、名号石は全国に1500以上存在するも東京都内には6ヶ寺ほどです。徳本上人は知る人ぞ知るの人で、4歳で念仏に発願し、16歳の時から不臥・座眠(横になって寝ることなく)、食事は1日に豆粉一合という生活を、61歳で亡くなるまで貫いた方で、荒行苦行断食の不断念仏の生活は40年間以上続けたと言われ、そのことから起こった奇瑞の数は数知れないが、ただ本人は法然上人の一枚起請文のみを唯一の師として、和歌を取り入れたやさしい法話を行い、全国で大名から庶民まで多くの方から人気を博した。そういう上人です。
また以前は寺町入り口にあった「木食心譽一道上人」の石標があります。一道上人も木食とあるように徳本上人と同じ修行に明け暮れた上人で、疫病退散を願って般若心経三千巻を書写して埋蔵し般若塚を建立した人です。また、江戸中期の読本作家であり、雑学者であった高井蘭山師のお墓もあります。次回を楽しみに。
合 掌