住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2025年4月1日 - ≪今月の言葉≫
まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生
寒暖差の激しい三月が終わり、
ようやく控えめな四月がやってきました
稲穂同様枝垂桜に見習って
生きてゆきましょう
2025年4月1日 - ≪法話≫
4月のお話
寺の門前の三月の掲示板に「すぐに役に立つことは すぐに役に立たなくなります」という灘高校の以前の校訓を書いたところ、お檀家さんから「私は”後でと”言われることが一番嫌いで、すぐにやってくれないと頭に来る方なのですが、やっぱり駄目ですかね」と言われ、「いやいや、あなたの気持ちに私も同感ですが、あの言葉はそういう意味ではなく、受験高校として名高い灘高校として、いわゆる詰め込み式の受験勉強は駄目ですよという意味だと思いますよ」とお答えしました。
昔「手間を省くと、手間が増える」という言葉に苦笑いしたことを思い出し、灘高校のこんな言葉を書いてしまいました。現代社会の目標が、「早くて、便利で、快適の追求」と信じ込んで進んできた我々ですが、人間が幸せになることって、本当にそれでよかったのかなと、少し疑問に感じ始めています。
最近大学の先生と話をすることが多いのですが、最近の学生のレポートにみんな頭を悩ましていました。何人もの学生が内容は完ぺきなのですが、全く同じような文章のものを送ってくるそうです。確信は持てなくてもこれは生成AIを使ってるなと推測して落第点ぎりぎりの評価にし、苦情があれば申し出てくださいと言っても、誰も出てこなかったそうです。
楽しく生きることが人生最高の価値としている人が多いようですが、確かに楽という字は「らく」とも読めますから、たのしいとらくするは今や同義語になっているのかもしれません。しかし本来は全く違う意味です。らくして楽しければ最高だと言うかもしれませんが、らくして楽しいのはその場限りの、あまりに刹那的と思ってしまいます。感動が続く喜びは味わえないのではないでしょうか。仏教ではそうした楽しみを「欲」として、断ぜよと言います。その欲は決して満足することがないからです。
インドの昔話で、牛を99頭飼っている裕福な人がいました。彼はあと1頭で100頭になると思うと、ふるさとに牛を1頭飼っている友人を思い出し、ぼろぼろの服に着替え、その男のもとを訪ねます。「いいなおまえは、俺はもう生きてゆけないよ」と言うと、友人は「悪かった何も知らないで、牛が1頭いるからこれを連れてゆけ」と言って牛を差し出します。金持ちの男は牛を連れ帰り大喜びで寝たという話です。この後この話は「どちらの男が幸せでしょう?」で終わっています。どう思いますか?
金持ちの男は翌朝きっとこう言うでしょう。「次は200頭だ」。
一方牛を差し出した男は、友人の手助けができたことで、ずっと心晴れやかに暮らすでしょう。これが仏教のいうところの幸せだとしています。2000年前のこの話を、今我々はどのように味わうか、今それが問われているように感じます。
合 掌
2025年3月1日 - ≪法話≫
3月のお話
ホームぺージをご覧いただきましてありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させていただきます。
先月は、やっと春らしく暖かくなってきたかと思いきや、数十年ぶりの寒気が到来したりと寒暖差の激しい気候となりました。メディアでもヒートショックをテーマとしたお話が増え、室内においても寒暖差に注意を呼び掛けるようになりました。どうぞ皆様、お身体を大事に、ご自愛くださいませ。
さて、私が長年活動しておりました、ボーイスカウトでは、今月末頃にキャンプを行います。このキャンプでは中学三年生から高校生を対象として訓練キャンプと称し、日中の暖かさと夜の寒さを体験し、自然の厳しさを味わい寒暖差に備える主旨で、活動していました。
皆様、灯り一つない暗闇というものを体験したことがあるでしょうか。山深いキャンプ場での人里離れたところか、窓一つない人工的な部屋でなければ、よほどのことがなければ体験できないことではないでしょうか。現代の日本では光が全くないというような状況は、日常生活ではまず体験できないように思えます。
明治11年3月25日に日本で初めて電灯が灯り、この日を「電気記念日」としています。電気記念日のシンボルマークを観ますと、手のひらで光を囲むような、まるで合掌している中に光があるようなイメージがこのシンボルとなります。
真っ暗闇の山中でのランタンの灯は、その光がとても優しく、また安心でき、「あ!光ってこんなにも心をなごませるものなのか」と感じることができます。
限りある燃料の中での光だけでもありがたさを感じるのですが、皆様ご存知の阿弥陀様は光あふれる仏様でもあります。阿弥陀様の、阿弥陀には二つのサンスクリット語の音訳で、一つにはアミターバ=無量光と称し阿弥陀仏の光が届かないところはなく、空間的に限りがないということを示し、もう一方、アミターユス=無量寿と称し、阿弥陀仏の寿命は限りがなく、時間的に限りがないことの二つの語源から成り立っています。
キャンプのような自然の中にいますと、暗闇の中に対し光あふれる世界があるとどんなに素晴らしいのか解ります。夕方、山の向こうに沈む太陽、それまで光にあふれていた世界が徐々に闇が襲ってきます。急激に気温が下がり、私たちは暗闇の中では活動を止め、眠りにつきます。町の中での限りある人工的な光の夜以上に、光の意味がとても大事に感じます。
量りしれない光に満ちた世界、量りしれない命あふれる世界、それが即ち、阿弥陀様の存在であり、西方極楽浄土でございます。真西に太陽が沈む春分の日、秋分の日は阿弥陀様の住む西方極楽浄土を明確に感じることができ、より身近に感じる日でございます。手を合わせて、南無阿弥陀仏とお称えしたいと思います。
合 掌
2025年2月1日 - ≪今月の言葉≫
春の雪中入りすでにつもりけりの 久保田万太郎
ぐるりと家を取り巻く貧乏神
七福神は外に出られず
こんな言葉が胸に響きます。
当たり前の大事さ かみしめましょう。
2025年2月1日 - ≪法話≫
2月のお話
今年は3日が立春ということで、2日が節分になります。各神社は在庫のポスターが使えず、大わらわだったといいいます。立春は旧正月節ともいいますが、今年の旧正月は1月の29日でした。暦というのは何とも不思議です。「冬極まりて春近し」といいますが、まだまだ寒い日が続きそうです。
最近の節分は「恵方巻」が、すべてを席巻している感じですが、昔私が聞いた話は、鬼なんか怖くないと、太巻きを鬼の金棒に見立てて、鬼が来る鬼門の方角(東北東)に向かってかじることから始まったはずです。鬼門が東北東なのは丑虎の方角からということで、鬼の姿、牛の角と虎のふんどしという姿になっていることからもわかります。これは中国で首都西安の時代、隣国匈奴が東北東から秋の収穫の時期、略奪に来たことから生まれたようです。しかし最近は恵方に向かって太巻きを食べると願いが叶うと言われているようです。その理由はわかりません。
さて私の友人に大手新聞の校閲部という、新聞社の中では全く地味な仕事をしていた者がいました。新聞記事を印刷ぎりぎりで読み、間違いがないか最終テェックする仕事で、間違いがあれば傷つく人、困る人が出てしまうし、新聞の信用の問題もあるということで大変重要な仕事です。ここが新聞とSNSとの大きな違いです。先日米メタ(旧フェイスブック)が、投稿内容の事実関係を確認する「ファクトチェック」を米国で廃止するという報道がありました。私は益々ネット情報の怖さを感じました。
先日30代の人と話していて、ニュースの受け取り方に何か違和感を感じました。彼はテレビや新聞は一切見ず、情報のすべてをネットから得ていました。私のあたりまえは彼には全く通じませんでした。ネットの情報というのは、その人の興味関心、同じ価値観のものがどんどん集まってくるようで、初めは様々な価値観があった彼も、自分と同じ価値観のものしか見ていないと、一つの価値観が絶対化してしまうようでした。最終的にはトランプみたいな人が日本も首相になれば、日本ファーストになっていいなどと言い出し、多様性や少数者に対する目線は全く消え失せていて、怖ささえ感じました。
こうしたことが最近の選挙を見ていても感じてしまいます。兵庫県知事選のように、支持していた与党議員まで、議員全員が罷免決議をした知事が再選される。東広島市の市長が立候補した都知事選で2位になるなど、SNS効果が言われています。彼は政策なしの新政党を立ち上げ今年の都議会選挙に、立候補者を募るということで、SNSでの選挙戦を楽しんでいるとしか思えません。AIが人間の能力を超えてしまった時代、私たちにとって大切なものは何か、考える時期のようです。
合 掌
2025年1月4日 - ≪今月の言葉≫
吾が輩は蛇であること歓喜せり 吉田さかえ
三毒の煩悩を捨て去ることは難しい。
蛇と同じく、毒を生かすのも己自身。
無くすことはできなくても、
毒を知り、次へと脱皮したい。