住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2024年11月1日 - ≪法話≫
11月のお話
最近トクリュウ(匿名・流動型犯罪)なるもの、いわゆるSNSを使い、闇バイトで募集した人間が犯す強盗事件が関東で多発しています。実行犯となった人は、皆自分の個人情報を握られ「断れなかった」と言っていますが、いざ逮捕され、その罪の重さを知ってさぞや驚愕していることでしょう。なぜ言われるままに、あそこまでの凶悪行為ができるのか、全くわかりません。
ただ先日の裁判で、無期懲役刑が出た被告人が、「裁判員裁判なのだから最高刑『死刑』を求めた」との記事を読み驚きました。法律に詳しい方がネットで、「刑法28条に無期懲役でも10年以上経過すれば仮釈放できますとある」などの書き込みをし、TVのワイドショーのコメンテイターが、「日本の無期懲役は10年で刑務所から出られる」と言うと、その場にいる人が、「無期じゃだめだ、死刑一択だ」などという風潮がおこります。これはかなり怖いことです。
少し古い話ですが、平成4年の無期懲役の受刑者数は、1688人でその中で10年で仮釈放された人は6人です。最近でも1%未満といいます。仮釈放が決まるまでの平均は45年3か月と言われています。先日58年ぶりに無罪となったあの袴田さんも仮釈放までは48年かかっています。一方刑務所で亡くなる人は41名でした。ですから無期懲役は10年で出てくるなんて話は眉唾ものといえます。ただでさえ冤罪の多いこの国で、死刑制度は恐ろしい制度です。私は死刑制度にはもともと反対です。なぜなら死刑にしてしまったら、その人は極楽に行ってしまうからです。この世で罪は償い、反省ができないうちは死刑にすべきではありません。
お釈迦様の時代99人、人を殺し続けている殺人鬼がいました。彼は99人の小指を切り首飾りにしていたので、アングリマーラと言われていました。彼は100人の小指で首飾りを作れと師匠に言われていたからです。そして100人目、お釈迦様は彼と出会い、彼を説得し出家させ、弟子にしました。翌日警察がお釈迦様のところに来た時、お釈迦様は「もうここには殺人鬼はいません」と突っぱね、彼を渡しませんでした。しかしお釈迦様は毎日彼に托鉢をさせ、その都度彼は民衆から石を投げられ血だらけで帰ってきました。お釈迦様は「この世でしたことはこの世で精算しろ」と言い、何日も何も食べられない彼を見守り続けました。
「更生」という言葉があります。一字にすると「甦る」です。生き返るとか、生まれ変わるという意味です。よく「更正」と間違える人がいます。「更生」は正しくさせることではなく、さらに生きてもらうことです。落ち着いて考えたいことです。
合 掌
2024年11月1日 - ≪今月の言葉≫
空也忌の魚版の月ぞまどかなる 飯田蛇笏
比叡山の僧侶の帰属化に嫌気がさして市井の僧となった空也
念仏僧として諸国を遍歴し、満月の美しさに魅了された空也
最後はみちのくの地で、十三夜に念仏することを夢見た姿は
京の六波羅蜜寺にしっかり刻まれている。
2024年10月1日 - ≪法話≫
10月のお話
ホームぺージをご覧いただきましてありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させていただきます。
暑さ寒さも彼岸までとはよく申したもので、朝夕は涼しくなってきました。夏の疲れと日中との温度差による体調の崩しやすい季節となりますが、どうぞ皆様ご自愛ください。
さて、私事で恐縮ではございますが、昨年より浄土宗青年会に所属しましてお役を拝命しイベント等の企画運営に携わるようになりました。この10月となりますと、14日のスポーツの日に因んで東京教区浄土宗青年会「チャリティースポーツ・ソフトボール大会」が開催されます。当然、私も参加しますが、このスポーツ大会今更ながら何故大切な日・祝日なのか掘り下げてみたいと思います。
まず、この日が祝日となったのは、元々は10月10日であったように、この日が1964年の東京オリンピックの開会式であること、そして、戦後の日本が国際社会に復帰する象徴としての意味合いもあり、アジア地域初の開催であるということを含め1966年から祝日となりました。当初は体育の日と名打っていましたが、二度目の東京オリンピックを記念しスポーツの日としてより親しみやすい名に変更したようです。目的は『スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う』ということのようです。
身体の健康を保つためには自分にあった適度な運動を継続的に行うことが大切です。と言葉ではわかっていますが、怠け癖がある私は「時間がない!忙しい!」などとお恥ずかしい話ですが言い訳をしてしまいます。
健康を害すると、日々の生活に影響がでますし、やりたいこともできなくなってしまいます。病気にならないようにすることはとても大切なことだと思います。ですが、それだけが健康の目的ではないように思います。それは身体の健康だけではなく、心の健康も大事なことなのではないでしょうか。この世の中、病気にならない人はいませんが、心が健康であれば、たとえ病気になったとしても心の持ちようが変わるのではないでしょうか。
日本を代表し、世界で最高峰のプロ野球選手の大谷翔平のインタビューで、わくわくするようなレベルの高い試合になればなるほど、高度な技術・体力が要求されるそうです。ですが、最終的な決め手になるのは、体力よりもむしろ精神力ということでした。しっかりした精神力をもつことがとても重要であることを話されていました。これは大谷選手に限らず、私たちにとっても同じことが言えるのではないでしょうか。身体の健康と心の健康の両輪があってこそ本来もつ健康なのです。
それでは、心の健康を保つにはどうしたら良いのか、それは自分にあった拠り所となるものを持つことだと思います。その拠り所とは、仏の御教えなのです。お釈迦様がお説きになった御教えは日々の生活をより豊かにする為の御教え、言い換えますと心の健康をしっかり保つことに他ならないのです。仏の御教えは数多ありますが、その中でご縁をいただいた念仏の御教えがあります。
私のような心の弱いものに「つねに念仏してその心をはげませ」と法然上人は説かれました。弱いからこそ、称え続け自身の心をはげます言葉としても「南無阿弥陀仏」を口に出して称えるというお念仏の御教えがあるのだと私は思います。そしてこの念仏の御教えはあらゆる人の心を、称え続けることではげます言葉なのだと思います。困難な出来事に当たった時「だいじょうぶ、だいじょうぶ、なんとかなるさ」という言葉を口に出すことで励ます最上位に、お念仏があるのだと思います。我が名を呼べば必ず極楽浄土に往生させお救いくださる阿弥陀様がおわしますことと改めて私は思いました。
スポーツの日を契機に今一度、自分の心と身体のことを考え、この両輪をしっかり回し、日々の生活と共にお念仏を称え続け自身をはげましてゆきたいと思います。
合 掌
2024年9月1日 - ≪今月の言葉≫
秋彼岸袂ひろげて飛ぶ雀 川崎展宏
落語で使用人が彼岸のことを「ひうがん」となまったので、
主人が「ひがん」と言えと言い争いになり、領主が
秋は収穫で忙しいからひがん、春は暢気にひうがんでいい
決してけんかなどするでないと諭したという。
2024年9月1日 - ≪法話≫
9月のお話
8月の21日から25日の5日間、京都の総本山知恩院で輪番という、朝と昼にお説教をする当番を行ってきました。
今回私が掲示したお題は「願いに生きるー法然上人鑽仰」というものでした。法然上人鑽仰なんて偉そうですが、私が現在「法然上人鑽仰会」という会の理事長なので、使わせていただきました。 「願いに生きる」の「願生」は、浄土三部経によく出てくる言葉で、まさに仏様の願いを生きることですが、仏様の願いとは、どんな人でも往生できるというものです。このどんな人でもが重要で、お金がある人もない人も、勉強してる人もしていない人も、戒律を守っている人も守っていない人も、善人でも悪人でも、いわゆるどんな人でも往生できるという意味です。
このことを先に言うと誰でもが、それは逆に不平等だといい、努力してる人もしていない人も同じなんておかしいと言います。だから法然上人は順番を大事にしました。「先ずわが身の程を知り、後に仏の本願を信じなさい」と。最初に自分自身を顧みなさい、自分を見つめた時、法然上人自身が「無智の身」「罪悪生死の凡夫」だと言っています。親鸞聖人も「地獄は一定すみかぞかし」とまで言っていますし、鴨長明も「我れ周利槃特に遠く及ばじ」と、お釈迦様のお弟子で最も愚鈍だった周利槃特にさえかなわないとまで言っています。この自己認識があってこそ、仏の願いがうれしく感じられるものです。そんなお話をさせていただきました。
先日新聞のコラムで読んだ話ですが、「日本的なもの」とは何だろうということで、お正月やお盆、そしてお彼岸といった行事の中に、日本的な風景が受け継がれていて、それはとても大事なことだと語っていました。そして日本を作り上げた思想、元の文章は何だろうということで、文筆家の執行草舟氏は『日本書紀』にある神武天皇即位の詔をあげていました。その中に「養正」と、「利民」という二つの言葉を取り上げて、これが紀元前六六〇年から七二〇年に編纂された書に書かれていること、民主主義発祥のイギリスの『マグナ・カルタ』より一四〇〇年も前に「正しさを養い、民衆の利益を』という言葉があること、また聖徳太子の『憲法十七条』一条の「和を以て貴しと為す」や、十条の「他人が怒ったならば、自分に過失があると思い、自分が正しいと思っても、多くの人に順じなさい」など、これはただ仲良くしましょうという生易しい思想ではなく、己の幸せや成功を求めて生きるのではなく、むしろ不幸や悲哀を苦悩も受け入れて、遺恨、怨恨でさえも水に流し、相容れない相手とも和する世界史上類を見ない日本的の根源としています。この精神、今の人はご存じだろうか?
合 掌
2024年8月1日 - ≪法話≫
8月のお話
ホームページをご覧いただきありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させて頂きます。35度超えが多く、とんでもない酷暑が続いておりますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
先日、私が30年以上続けてきたボーイスカウトのニュースで衝撃を受けました。それは、世界で最大規模のスカウト人数を誇るアメリカのボーイスカウトが、設立115周年を迎える来年二月にボーイスカウト・オブ・アメリカからスカウティング・アメリカに変更すると発表したからです。アメリカでは2010年代から女子を受け入れ始め、昨今の女子会員の増加を受け、団体名を男の子を意味する「ボーイ」を外し、社会の多様性に配慮し、アメリカのスカウト連盟の会長が「誰もが受け入れられていると感じられるようにする為」と発信し、名称変更をおこなうことになりました。
私がスカウト活動に参加し、若手指導員として活動していた20年ぐらい前には、所属している地域ではすでに男女比は半々ぐらいでした。また、2001年のスカウト運動を統括する団体「世界スカウト機構」への登録名では「Scout Association of Japan」とボーイの文字をなくし、日本では国際的な多様性の観点を踏まえ変更していました。それもあって、高校生の時に日本代表でアメリカのキャンプ場で交流会をした時に、男子しかいなかったことに違和感がありました。
アメリカのスカウト運動が公にも変更し多様性を受け入れる姿勢を見せ始めたことに関して衝撃を受けましたが、実は未だに日本のスカウト連盟の和名では、「ボーイスカウト日本連盟」と「ボーイ」の文字は残ったままの公益財団法人として登録していることに、より一層衝撃を受けました。このアメリカでの動きを是非日本でも取り組んでほしいと感じます。
どこで生まれ、どのような性で生まれるかを選ぶことができないとしても、自身の成長に女性だからとか男性だからと教育の現場で区別し選択・行動の自由を奪い、多様性を認めないということは、もうこれは区別ではなく「差別」になるのではないでしょうか。決めつけて抑制しレッテルを貼ってしまうということは大いに警戒すべきことなのだと思います。この身近な性に関してでさえも差別を生みかねないのだから、ましてや、マイノリティの方々に対してはより一層の激しい差別をしているのだと思います。
お釈迦様がお生まれになった、当時のインドでは、六道輪廻が根本にあり、また、カースト制度という身分制度も当然のように社会に組み込まれていました。お釈迦様はこの六道輪廻を超える「解脱」と身分制度であるカースト制度を否定し、生まれながらにしてレッテルを貼ること、言い換えますと差別することを否定し、生まれで決まるのではなく、自身がこれから「なにをするのか」が重要であり、一切の生きとし生けるものは平等であると説かれたのです。
仏の御教えを学び信じていくものにとって、このことを踏まえ、ほんの些細なことであっても差別をうむ言葉を発していないか、私自身、今一度胸に手を当てて問い続けていかなければならないのだと思います。
合 掌