住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2025年6月1日 - ≪今月の言葉≫
腹悪しき僧こぼしゆく施米哉 蕪 村
毎年六月に京都の山で修行する僧に、
朝廷が米と塩を施す「施米」が行われていた。
怒っている僧はぶつぶつ言いながら
せっかくの米をこぼしながら去ってゆくという。
2025年6月1日 - ≪法話≫
6月のお話
先月中旬「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれた、ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏が亡くなった。89歳でした。彼は以前「私は質素なだけで、貧しくはない」とおっしゃり、2012年の国連演説でも「貧乏とは少ししか待っていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないことである」と言っています。この言葉は、まさに仏教の教える「餓鬼」の定義です。
仏教の論書の中に、「餓鬼」とは三種あり、一つは無財餓鬼、いわゆる何も所有していない、そのものずばりの餓鬼です。二つ目は少財餓鬼、少しは持っているが、到底満足できない見るからに餓鬼です。そして三つ目は多財餓鬼、充分に待っているが、満足できず、際限のない欲望の餓鬼です。「餓鬼」つまり欲望とは状態ではなく、そのものの心をさします。河上肇の『貧乏物語』の中に「人は水にかわいても死ぬが、おぼれても死ぬものである」というセリフがあるそうですが、貧しさを論ずることは、同時に豊かさを論じることであることを語っています。
ムヒカ氏は生前、「私たちは経済発展するために、この地球にやってきたわけではありません。」と語っていました。私たちに生きることの意味や、幸せとは何かを示してくれた方でした。
少し前の話ですが、ある方が同じカップラーメンのCMを日本と韓国で見て、その違いに愕然とされていました。日本では兄弟が取り合いをして、「こんなにおいしいカップラーメン」と言っていたのに、韓国では兄弟が譲りあいをして「こんなにおいしいカップラーメン」としていたのです。この話を聞いて「負けた」と思ってしまうは私だけでしょうか。
戦後80年、世界の極貧国としてスタートした韓国が、今や日本にも近づく経済大国になっています。それでいてこの日本人との感性の違いはどうしてなのでしょうか?最近のニュースを聴きながらも、何か日本人が変わってしまったような気がしてしまうのは私だけでしょうか?
昔、ひろさちや氏が何度もしてくれた話に、一つのケーキを兄弟で二つに分けて食べる話があります。兄がもらってきたケーキを母親が弟と二つに分けて食べなさいと言い、お父さんが二つに分けて食べる理由を兄弟に問います。兄は弟がかわいそうだからと言い、弟は今度僕がもらってきたら半分あげるからと言います。 お父さんはその両方とも違うと言います。かわいそうでは、けんかしていたらあげなくなり、お返しを期待しているのでは仏教の布施の心ではなくなります。お父さんの気持ちは、二人で食べたほうがケーキがおいしいと思える子になってもらいたいからだと言う話です。そしてこの心が布施の心だと言っています。
合 掌
2025年5月1日 - ≪法話≫
5月のお話
ホームぺージをご覧いただきましてありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させていただきます。
朝夕の気温は低く、日中は暑い日差しがあり、寒暖差の激しい初夏となりました。服装選びも難しく体調を崩しやすい気候となりますが、無理せずどうぞご自愛くださいませ。
さて、今月のゴールデンウィークは飛び石のような形となり、なかなか長期休暇がとりずらい日程となっていますが、この連休の中の5月3日「憲法記念日」に注目してみたいと思います。
日本国憲法は、ご存知の方も多いとは思いますが、昭和22年5月3日に施行され、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を柱として私たちとその子供たち、子孫のために平和を念願し、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓うという素晴らしい憲法として成立し、世界的にも高い評価を受けています。近年、改憲・護憲など様々な議論が起きておりますが、この崇高な平和主義を掲げるのであれば、お互いがお互いを尊重しどちらか一方の正義を主張し、強いるのではなく、平和を基に認め合い歩んでいくことを忘れてはいけないのだと思います。
仏教には「戒」と「律」というものがあります。お釈迦さまのもとで、僧侶が大勢集まり生活を共にするようになると、秩序を維持するための規範が必要となり、この「戒律」ができたのです。集団におけるルールとして「律」があり、これを破る場合罰則が与えられます。一方「戒」とは自ら積極的に守っていこうとする、言わば努力する決めごとです。仏教徒の大原則として、戒・定・慧の三学を修しさとりを目指すことが根底にあります。煩悩をおさえ心を戒め、それによって心を静め、そして静かになった心で真理を知るという、戒律から始まる非常に重要なプロセスなのです。
ですが、この三学を修めるということは非常に難しく「智慧第一の法然房」と呼ばれる法然上人は、僧侶であるにもかかわらず「我れ三学の器にあらず」として、三学の実践とは別に、誰もができる「南無阿弥陀仏」と称える、称名念仏の教えを説きました。
法然上人は、「酒を飲んではいけないのでは」という質問に「飲むべくもなけれども、—この世の習い」と答えられています。だれもが称えることのできる念仏を称えることが第一であり、日常の些細なことよりも本質的なことが大切なのだと示されているのだと思います。
法律に明言されている言葉や条文があるから、それを守るというのではなく、根本は人々が共に幸せに歩んでいけるようにするための究極の原則が憲法なのだと思います。そして、すべての人が共に歩み平和になるには、自身が煩悩に満ちて、正しくみることができず固執してしまうことを知ることが必要なのだと思います。まさに私たち自身が「三学の器にあらず」と言えることなのだと思います。
誰もが凡夫であるということを自覚するからこそお互いが歩みより、その心がお念仏の御教えには内包されているのだと思います。
まずは、私自身、傲慢にならないようお念仏を称え続けたいと思います。
合 掌
2025年4月1日 - ≪今月の言葉≫
まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生
寒暖差の激しい三月が終わり、
ようやく控えめな四月がやってきました
稲穂同様枝垂桜に見習って
生きてゆきましょう
2025年4月1日 - ≪法話≫
4月のお話
寺の門前の三月の掲示板に「すぐに役に立つことは すぐに役に立たなくなります」という灘高校の以前の校訓を書いたところ、お檀家さんから「私は”後でと”言われることが一番嫌いで、すぐにやってくれないと頭に来る方なのですが、やっぱり駄目ですかね」と言われ、「いやいや、あなたの気持ちに私も同感ですが、あの言葉はそういう意味ではなく、受験高校として名高い灘高校として、いわゆる詰め込み式の受験勉強は駄目ですよという意味だと思いますよ」とお答えしました。
昔「手間を省くと、手間が増える」という言葉に苦笑いしたことを思い出し、灘高校のこんな言葉を書いてしまいました。現代社会の目標が、「早くて、便利で、快適の追求」と信じ込んで進んできた我々ですが、人間が幸せになることって、本当にそれでよかったのかなと、少し疑問に感じ始めています。
最近大学の先生と話をすることが多いのですが、最近の学生のレポートにみんな頭を悩ましていました。何人もの学生が内容は完ぺきなのですが、全く同じような文章のものを送ってくるそうです。確信は持てなくてもこれは生成AIを使ってるなと推測して落第点ぎりぎりの評価にし、苦情があれば申し出てくださいと言っても、誰も出てこなかったそうです。
楽しく生きることが人生最高の価値としている人が多いようですが、確かに楽という字は「らく」とも読めますから、たのしいとらくするは今や同義語になっているのかもしれません。しかし本来は全く違う意味です。らくして楽しければ最高だと言うかもしれませんが、らくして楽しいのはその場限りの、あまりに刹那的と思ってしまいます。感動が続く喜びは味わえないのではないでしょうか。仏教ではそうした楽しみを「欲」として、断ぜよと言います。その欲は決して満足することがないからです。
インドの昔話で、牛を99頭飼っている裕福な人がいました。彼はあと1頭で100頭になると思うと、ふるさとに牛を1頭飼っている友人を思い出し、ぼろぼろの服に着替え、その男のもとを訪ねます。「いいなおまえは、俺はもう生きてゆけないよ」と言うと、友人は「悪かった何も知らないで、牛が1頭いるからこれを連れてゆけ」と言って牛を差し出します。金持ちの男は牛を連れ帰り大喜びで寝たという話です。この後この話は「どちらの男が幸せでしょう?」で終わっています。どう思いますか?
金持ちの男は翌朝きっとこう言うでしょう。「次は200頭だ」。
一方牛を差し出した男は、友人の手助けができたことで、ずっと心晴れやかに暮らすでしょう。これが仏教のいうところの幸せだとしています。2000年前のこの話を、今我々はどのように味わうか、今それが問われているように感じます。
合 掌
2025年3月1日 - ≪法話≫
3月のお話
ホームぺージをご覧いただきましてありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させていただきます。
先月は、やっと春らしく暖かくなってきたかと思いきや、数十年ぶりの寒気が到来したりと寒暖差の激しい気候となりました。メディアでもヒートショックをテーマとしたお話が増え、室内においても寒暖差に注意を呼び掛けるようになりました。どうぞ皆様、お身体を大事に、ご自愛くださいませ。
さて、私が長年活動しておりました、ボーイスカウトでは、今月末頃にキャンプを行います。このキャンプでは中学三年生から高校生を対象として訓練キャンプと称し、日中の暖かさと夜の寒さを体験し、自然の厳しさを味わい寒暖差に備える主旨で、活動していました。
皆様、灯り一つない暗闇というものを体験したことがあるでしょうか。山深いキャンプ場での人里離れたところか、窓一つない人工的な部屋でなければ、よほどのことがなければ体験できないことではないでしょうか。現代の日本では光が全くないというような状況は、日常生活ではまず体験できないように思えます。
明治11年3月25日に日本で初めて電灯が灯り、この日を「電気記念日」としています。電気記念日のシンボルマークを観ますと、手のひらで光を囲むような、まるで合掌している中に光があるようなイメージがこのシンボルとなります。
真っ暗闇の山中でのランタンの灯は、その光がとても優しく、また安心でき、「あ!光ってこんなにも心をなごませるものなのか」と感じることができます。
限りある燃料の中での光だけでもありがたさを感じるのですが、皆様ご存知の阿弥陀様は光あふれる仏様でもあります。阿弥陀様の、阿弥陀には二つのサンスクリット語の音訳で、一つにはアミターバ=無量光と称し阿弥陀仏の光が届かないところはなく、空間的に限りがないということを示し、もう一方、アミターユス=無量寿と称し、阿弥陀仏の寿命は限りがなく、時間的に限りがないことの二つの語源から成り立っています。
キャンプのような自然の中にいますと、暗闇の中に対し光あふれる世界があるとどんなに素晴らしいのか解ります。夕方、山の向こうに沈む太陽、それまで光にあふれていた世界が徐々に闇が襲ってきます。急激に気温が下がり、私たちは暗闇の中では活動を止め、眠りにつきます。町の中での限りある人工的な光の夜以上に、光の意味がとても大事に感じます。
量りしれない光に満ちた世界、量りしれない命あふれる世界、それが即ち、阿弥陀様の存在であり、西方極楽浄土でございます。真西に太陽が沈む春分の日、秋分の日は阿弥陀様の住む西方極楽浄土を明確に感じることができ、より身近に感じる日でございます。手を合わせて、南無阿弥陀仏とお称えしたいと思います。
合 掌