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住職の言葉

「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤

住職の言葉 - 一覧


2025年3月1日 - ≪法話

3月のお話

 ホームぺージをご覧いただきましてありがとうございます。今月は弟子の岱忠が担当させていただきます。
 先月は、やっと春らしく暖かくなってきたかと思いきや、数十年ぶりの寒気が到来したりと寒暖差の激しい気候となりました。メディアでもヒートショックをテーマとしたお話が増え、室内においても寒暖差に注意を呼び掛けるようになりました。どうぞ皆様、お身体を大事に、ご自愛くださいませ。
 さて、私が長年活動しておりました、ボーイスカウトでは、今月末頃にキャンプを行います。このキャンプでは中学三年生から高校生を対象として訓練キャンプと称し、日中の暖かさと夜の寒さを体験し、自然の厳しさを味わい寒暖差に備える主旨で、活動していました。
 皆様、灯り一つない暗闇というものを体験したことがあるでしょうか。山深いキャンプ場での人里離れたところか、窓一つない人工的な部屋でなければ、よほどのことがなければ体験できないことではないでしょうか。現代の日本では光が全くないというような状況は、日常生活ではまず体験できないように思えます。
 明治11年3月25日に日本で初めて電灯が灯り、この日を「電気記念日」としています。電気記念日のシンボルマークを観ますと、手のひらで光を囲むような、まるで合掌している中に光があるようなイメージがこのシンボルとなります。
 真っ暗闇の山中でのランタンの灯は、その光がとても優しく、また安心でき、「あ!光ってこんなにも心をなごませるものなのか」と感じることができます。
 限りある燃料の中での光だけでもありがたさを感じるのですが、皆様ご存知の阿弥陀様は光あふれる仏様でもあります。阿弥陀様の、阿弥陀には二つのサンスクリット語の音訳で、一つにはアミターバ=無量光と称し阿弥陀仏の光が届かないところはなく、空間的に限りがないということを示し、もう一方、アミターユス=無量寿と称し、阿弥陀仏の寿命は限りがなく、時間的に限りがないことの二つの語源から成り立っています。
 キャンプのような自然の中にいますと、暗闇の中に対し光あふれる世界があるとどんなに素晴らしいのか解ります。夕方、山の向こうに沈む太陽、それまで光にあふれていた世界が徐々に闇が襲ってきます。急激に気温が下がり、私たちは暗闇の中では活動を止め、眠りにつきます。町の中での限りある人工的な光の夜以上に、光の意味がとても大事に感じます。
 はかりしれない光に満ちた世界、はかりしれない命あふれる世界、それが即ち、阿弥陀様の存在であり、西方極楽浄土でございます。真西に太陽が沈む春分の日、秋分の日は阿弥陀様の住む西方極楽浄土を明確に感じることができ、より身近に感じる日でございます。手を合わせて、南無阿弥陀仏とお称えしたいと思います。

合 掌

  

2025年2月1日 - ≪今月の言葉

春の雪中入りすでにつもりけりの  久保田万太郎

    ぐるりと家を取り巻く貧乏神

    七福神は外に出られず

    こんな言葉が胸に響きます。
  
    当たり前の大事さ かみしめましょう。

2025年2月1日 - ≪法話

2月のお話

 今年は3日が立春ということで、2日が節分になります。各神社は在庫のポスターが使えず、大わらわだったといいいます。立春は旧正月節ともいいますが、今年の旧正月は1月の29日でした。暦というのは何とも不思議です。「冬極まりて春近し」といいますが、まだまだ寒い日が続きそうです。
 最近の節分は「恵方巻」が、すべてを席巻している感じですが、昔私が聞いた話は、鬼なんか怖くないと、太巻きを鬼の金棒に見立てて、鬼が来る鬼門の方角(東北東)に向かってかじることから始まったはずです。鬼門が東北東なのは丑虎の方角からということで、鬼の姿、牛の角と虎のふんどしという姿になっていることからもわかります。これは中国で首都西安の時代、隣国匈奴が東北東から秋の収穫の時期、略奪に来たことから生まれたようです。しかし最近は恵方に向かって太巻きを食べると願いが叶うと言われているようです。その理由はわかりません。
 さて私の友人に大手新聞の校閲部という、新聞社の中では全く地味な仕事をしていた者がいました。新聞記事を印刷ぎりぎりで読み、間違いがないか最終テェックする仕事で、間違いがあれば傷つく人、困る人が出てしまうし、新聞の信用の問題もあるということで大変重要な仕事です。ここが新聞とSNSとの大きな違いです。先日米メタ(旧フェイスブック)が、投稿内容の事実関係を確認する「ファクトチェック」を米国で廃止するという報道がありました。私は益々ネット情報の怖さを感じました。
 先日30代の人と話していて、ニュースの受け取り方に何か違和感を感じました。彼はテレビや新聞は一切見ず、情報のすべてをネットから得ていました。私のあたりまえは彼には全く通じませんでした。ネットの情報というのは、その人の興味関心、同じ価値観のものがどんどん集まってくるようで、初めは様々な価値観があった彼も、自分と同じ価値観のものしか見ていないと、一つの価値観が絶対化してしまうようでした。最終的にはトランプみたいな人が日本も首相になれば、日本ファーストになっていいなどと言い出し、多様性や少数者に対する目線は全く消え失せていて、怖ささえ感じました。
 こうしたことが最近の選挙を見ていても感じてしまいます。兵庫県知事選のように、支持していた与党議員まで、議員全員が罷免決議をした知事が再選される。東広島市の市長が立候補した都知事選で2位になるなど、SNS効果が言われています。彼は政策なしの新政党を立ち上げ今年の都議会選挙に、立候補者を募るということで、SNSでの選挙戦を楽しんでいるとしか思えません。AIが人間の能力を超えてしまった時代、私たちにとって大切なものは何か、考える時期のようです。

合 掌

          

2025年1月4日 - ≪今月の言葉

吾が輩は蛇であること歓喜せり  吉田さかえ

三毒の煩悩を捨て去ることは難しい。
蛇と同じく、毒を生かすのも己自身。
無くすことはできなくても、
毒を知り、次へと脱皮したい。

2025年1月1日 - ≪法話

1月のお話

 新年明けましておめでとうございます、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 戒法寺ホームページをご覧いただきありがとうございます。新年のご挨拶は弟子の岱忠が担当させて頂きます。
 年改まり令和七年がスタートしました。歴史ある「戒法寺通信第85号」の新年の冊子編集を初めて担当させて頂きました。編集のプロである長谷川住職と違い、大学時代少しだけ学術書などの編集を手伝う程度のことしかしていませんので、皆様にお見せするにはほとんど素人でございます。不手際が生じることが多いかと思います。皆様のお力・お知恵をお借りしまして、親しみやすく、よりお寺に来たくなるような雰囲気を作っていければと考えております。
 さて、正月と言いますと「書初め」が2日に行われることが一般的です。書道や茶道、三味線などのお稽古ごとは「1月2日から習い始めると上達する」と言われていて、この日を初稽古の日とする習い事は多いようです。また、平安時代の「吉書の奏」は、単純に縁起の良い日を選んで行われていましたが、室町時代の「吉書始め」は、1月2日に大々的に行われていたので、その日にも因んでいます。
 「言は心の声、書は心の画」と中国前漢時代末期の哲学・文学の学者が「書、心画也」から因んで言われているとおり、書は書く人の心の中を見せてくれるのではないでしょうか。
また、いくら書いた字が稚拙であっても、心清らかな人が書いた字は澄んだ線をしているものなのだといわれます。ただ現実には「上手い字」「上手な書」に対するあこがれもあり、心の持ちようとはあまり関係なく「美しい字を書きたい」と思う人が当然たくさんいるかと思います。かくいう私もその一人です。
 日本では、書道は「手習い」または「お稽古」といいますが、日本人独特の文化である「茶道」や「華道」と同様、習うことからはじまって、一歩一歩より高いところ、より深いところへとたどり着く「道」を究めるという伝統があると思います。現代の教育では、個性を尊重しそれに重きを置きすぎているのかもしれません。個性は、「習う」ということがあってこそ生まれてくるものであり、学ぶはまねるから始まるものです。日頃の精進が必要であり、その積み重ねの上に本来持つ個性が生まれでてくるものでしょう。
「美しい字を書く」だけでも大変なことですが、自身の思いを現す為には日々そうとう努力しなければ到達できないのだと思います。僧侶として、筆で書くということは当然なことなのですが、私自身まだまだ皆様にお見せできるレベルではないと痛感しております。
 今年は巳年です。自身の形を次のステップへと成長させることは、まさに蛇が脱皮して成長していくことと同じことだと思います。立ち止まり、右往左往しながらも自身も脱皮していけるよう、成長できるような年にしたいと思います。

南無阿弥陀仏 合 掌

2024年12月1日 - ≪法話

12月のお話

 アメリカの大統領選挙も終わり、トランプ氏が圧勝しました。トランプ氏の勝利が決定したころから、黒人の人のスマホに「明日朝10時に農園に集合しなさい。その際身体検査もあります」というメールが飛び交ったそうです。どうもトランプ陣営からの行動だそうで、黒人を奴隷としていた時代を彷彿させるものだそうです。今回の選挙でわかったことは黒人男性は民族差別よりも女性差別の方が強いということがはっきりしましたが、トランプ氏は勝ったとたんにその本性をあらわに、自身の人種差別を明確化したのでしょう。
 それにしても人権問題に携わっていて一番厄介なものが、この男性の女性差別です。これほど根強く、潜在意識に定着している差別は他にありません。普段は顔を出さなくても、いざ権力を持つとなるとはっきりと出てくるのでしょう。ガラスの天井とはよく言ったものです。又お酒が入ったりしても、ちょくちょく顔を出すこともあり、まことに困ったものです。人類史上最も古く最も深い差別です。
 私たちの浄土教で所依の経典としている『仏説無量寿経』には、女性を救いたいの一心から、阿弥陀仏の誓願の第35願に「女人往生の願」があります。阿弥陀仏は第18願で、すべての人を救うとしていますが、極楽が男性だけの世界ということで、あえて第35願で女人は男性に生まれ変わって往生するとしています。 先日も女性と論議になってしまったのですが、「これは差別以外の何物でもない」と言われました。私は2,100年以上昔のインドで、女性が全く救いの対象から外されていた時代背景の中で書かれたものであること、また極楽に男性しかいなければもはや男とか女性の区別はなく、どっちになっても一緒だということなど、阿弥陀仏の女性を救いたいという願いをなぜ理解できないのかと論争になってしまいました。
 かなり前、DVの被害者救済のNGOの方の講演で、「男性はすべて加害者であることを自覚して話を聞きなさい」と言われ、どっきりしたことを今でも思い出しますが、確かに男性同士の話では、身内の女性だとつい下に見る言い方をしてしまい、その場の女性を傷つけることがあります。男性同士では冗談で済んでも、女性にとってはそれでは済まないことを、よくよく考えないといけないようです。でもこれは昭和の人間の話で、若い方々には何を言っているのかと、男性にも怒られそうです。
 経典も言葉であり、その理解は確かに難しいのですが、言葉だけにとらわれず、何が言いたいのか、どこが神髄なのかを探りながら、読んでいただきたいと思いました。

合 掌