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戒法寺史

戒法寺の歴史と由来について
境内案内

東照山戒法寺史

戒法寺史  戒法寺は、元和八年(1622)に、東照山栄願院戒法寺として江戸本芝(金杉橋付近)に創建されました。開山は専誉良呑上人と申します。この年は、徳川家光公が三代目に就任する前年であり、江戸幕府開幕から二十年になろうとする頃で、新寺建立が禁止され、幕府が本格的に寺請制度を始める頃です。
 その後寛永九年(1632)に麻布我善坊谷(狸穴)に移りまして二十九年間活動しますが、寛文元年(1661)に、この狸穴の地が、家光公の三子甲府大納言徳川綱重氏の御用地となり、幕府に召し上げとなりました。急な話に一時期麻布の金蔵寺(浄土真宗)の寺内にお世話になります。
 そして延宝二年(1674)に、ここ大崎村に狸穴時代共にした四カ寺(最上寺・清岸寺・本願寺・光取寺)と共に移り、現地にあった正福寺(現常光寺)と六カ寺にて増上寺下屋敷と呼ばれていました。現在は九カ寺です。
令和四年(2022)に四〇〇年を迎えます。

戒法寺外観1戒法寺外観2戒法寺外観3

 江戸期を偲ぶものとして当山内に、もと寺町の惣門場所にあった「木食心誉一道上人の石標」があります。この上人は縁山清林院の傑僧で、目黒行人坂の中腹に疫病退散を希念して、延享三年に般若心経三千巻を書写し、地中に埋蔵して般若塚を建立した人で、この石標は上人旧蹟の道標か、上人が三田用水路にかけた橋の一部かと言われています。

高井蘭山の墓

高井蘭山の墓

 境内には、寺子屋の教科書の著述で知られ、雑学博士であり、また葛飾北斎や曲亭馬琴などと同時代の劇作家で、北斎が馬琴と不和になったため、『新編水滸画伝』を十二巻より綴ったという、高井蘭山の墓がございます。

「仏足石」の石碑

「仏足石」の石碑

 本堂右脇に「仏足石」の石碑があります。足の裏を礼拝対象とするのは、直接仏のお姿を畏れおおくて表せなかった、たいへん古い仏教信仰の形で、当山のものはその中でも貞極系の片足というめずらしいものです。またその上に江戸末期の高僧で有名な徳本上人の「御名号」石碑があります。元々は別個にあったようですが、この地にきていっしょになったようです。