住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2021年3月1日 - ≪法話≫
3月のお話
春の兆しが強く感じられるようになり、啓蟄(けいちつ)、春分へと自然は目覚め始める季節となりました。
今年は東日本大震災から10年目を迎えますが、先日も大きな余震があったように、まだまだ地震の恐怖も続いています。
新型コロナ感染病があることで、花粉症や普通の風邪であっても人前で咳やくしゃみをすることがはばかられる毎日ですが、野口整体の創始者野口晴哉氏は著書で、「風邪や下痢は体の大掃除、風邪もひけない、下痢もできないような体になってはおしまいだ、ゴホンといったら喜べ」と言っています。五木寛之氏は「病気は治(なお)すものではなく、治(おさ)めるものだ」とも言っています。五木氏はまた「健康方はまちがいのもとで、人間はみんな死のキャリア」とも言っています。
風邪だって堂々と生きようじゃありませんか、死なない人間はいません。いかに余裕を持って死を見つめることができ、今を楽しく充実して暮らすかが問題ということでしょう。
昔西行法師が晩年「願わくば花の下にて我死なん それ如月の望月のころ」と詠み、釈尊の涅槃会2月15日に吉野の桜の満開の下で死にたいなあと願い、2月14日に亡くなられました。正に願いが叶ったわけですが、この2月15日は旧暦ですので、今年ですと3月27日になります。
お寺では毎年、涅槃図を2月の一ヶ月間掛けておりますが、今年は3月も掛けることにしました。サーラの樹の林の中で頭北面西に横たわる釈尊の涅槃のお姿の図「涅槃図の余白なきまで嘆き合う」田崎腸恵氏の句があります。余白なきまで嘆いている仏弟子、さまざまな人種の人々、動物、鳥類、昆虫であふれている図です。あらゆる生き物が皆平等のいのちであることを示している仏陀のメッセージです。最近いのちの格付けがなされ、「役に立ついのちとそうでないいのち」といういのちの分断が始まっています。価値でものを見る眼を肉眼といい、意味でものを見る眼を仏眼(智惠のまなこ)と仏陀は示しています。
コロナを正しく怖がる眼、怖がらなさすぎることもなく、怖がりすぎることもないよう、しっかり冷静に人間にとって何が大切かを判断しながら生活したいと思います。
合 掌
2021年3月1日 - ≪今月の言葉≫
お彼岸のきれいな顔の雀かな 勝又一透
今年は桜の開花が、又早くなりそうです。
桜が入学式から卒業式の花になり、
将来それもかなわなくなったら少し寂しいです。
せめてコロナが温暖化を止めてくれたらいいですね。
2021年2月1日 - ≪今月の言葉≫
まんなかにごろりとおはす寝釈迦かな 日野草城
緊急事態宣言も延長となり、外に出られぬ日が続く
十五日は涅槃会。沙羅双樹の間に横たわる釈迦の姿
まねして寝てみるのも一興かな
今は、病いもけがもしないことが、唯々尊い。
2021年2月1日 - ≪法話≫
2月のお話
今月もホームページをご覧頂きありがとうございます。
新型コロナの感染病がまだまだ収まりそうもありません。ワクチンができたとは言え、国民の大多数に届くのにはまだまだ時間がかかりそうです。
感染症は感染力を強めながらも毒性は低くなる変異をしてゆくと聞いていたのに、変異した感染症が死亡率が高いなどと聞くと、何が何だかわからなくなってしまいました。私たちは今、答えの見えない、そして出口の見えない、状態にいるようです。
昔聖徳太子さんが言いました。「世間虚仮 唯仏是真」。世の中は嘘偽り、仮のものであって、仏の教えだけが真実だ。こんなこと政治家のトップの人が言ったら、今なら冗談じゃないと言われそうです。事実江戸時代の儒学者は皆とんでもないと批難しました。確かに現実をどうにかしなくてはならない政治家は言ってはいけないけれど、この言葉って、やはり真実ですね。
この世での幸せばかりを求め、欲望がかなうこと、らくして快適で楽しいことばかりを追いかけてる人生は、ちょっとした不幸で鬼に変わってゆくのです。そしてそれではだめだと説くのが仏教です。
今大ヒットしているこの『鬼滅の刃』の鬼も、最初は人が変化したものだそうです。そして人を鬼にする力もあるのだそうです。人に対して恨みを持ったり、人生を呪ったりすると鬼になるといいます。古いインドの宗教に六道輪廻という教えがあり、仏教もそれを取り入れましたが、唯仏教は死後の世界としてとらえたのではなく、今の心の中の変化としてとらえました。
つまり地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界は、今の私たちの心の中にあると教えています。たとえば餓鬼の鬼、財力の何もない飢えている存在の鬼は、地獄に近い世界に存在し、たらふく財力ある鬼は、この人間界に住んでいると説いています。餓鬼にも欲張った権力の象徴のような鬼もいるのです。仏教は私たちはそんな六道の闇に落ちることなく、そこから解脱して、お浄土をめざすこと、まるで『鬼滅の刃』の日輪刀のごとく、阿弥陀様の光明をいただいてお浄土をめざす教えなのです。
この世に唯々没してしまうのではなく、また唯々闇にしないために。
合 掌
2021年1月1日 - ≪法話≫
コロナ禍の中を生きる
明けましておめでとうございます。
今年も「戒法寺ホームページ」をご覧頂きありがとうございます。
昨年日本そして世界は、百年に一度の感染病の流行という大変な悲劇に襲われ、多くの人が亡くなり、今なお感染の拡大に、世界中の人々が不安な毎日を過ごしています。
この感染病は、身体の病と同時に心の病、不安や恐怖、そしてそれがもたらす差別や攻撃的行動という三つのことがスパイラルとなって、ぐるぐる回り出し、悲しい現状を作っています。
私たちはこのスパイラルだけは止めなければならないと思います。感染という現実が止まらないのなら、せめて不安を少なくし、差別や攻撃的行動を押さえなければなりません。
しかし不安を減らす材料はまだまだないのが現状です。それなら不安を淘汰する強い心をつくるしかありません。
人類の歴史は感染病との戦いの歴史です。その戦いの中で人々がいつも力にしてきたのは、宗教であり、信仰です。しかしそのことをなぜか現代の日本人は語れないでいるようです。
他の人に攻撃的にならないために正義感ばかりが前に出ないために、人を許せるようになるために、不安を乗り越えなければなりません。それは信仰の力によって、自分は目に見えない大きなる力に守られていることを確信してゆくしかないと思うのです。
どうぞ今こそ、お念仏をお唱えして、仏様、ご先祖様に守られていることを強く信じてください。きっと他の人にやさしく接することができるようになれることでしょう。
とんちで有名な一休さんは皆さんご存じだと思います。その一休さんは子供の頃の逸話ばかりが有名ですが、実は大徳寺の住職になり八十六歳まで活躍しました。一休禅師は亡くなるとき遺言を書きますが、弟子たちに次のように言い残します。「いいかこの遺言は今見てはならない、この大徳寺がつぶれるか、日本中で人がばったばったと亡くなるようなとき開けなさい」。
弟子たちはこの言葉を守り、数十年保管しました。やがて感染病がはやり、人々が次々に亡くなりだしたとき、ひとりの弟子が一休禅師の言葉を思い出し、遺言状を見ることにしました。息を飲んで見守る中で遺言状は開かれました。
書かれていた言葉は「なるようになる 心配するな」でした。
一同は笑い出してしまいましたが、不安でいっぱいだった心はなぜか落ち着きを取り戻し、日常に戻ることができました。
この言葉は、今私たちに必要な言葉でもあるでしょう。
今年も一年、とにかく生きてゆきましょう。
合 掌
2021年1月1日 - ≪今月の言葉≫
星めがけて賽銭投げぬ初詣 佐野青陽人
明治神宮では夕四時閉門、朝六時開門とのことで、
年越しに初詣はできなかったようだ。
毎年していることができないのは寂しいが、
去年とおなじでないことをすることによって、
今年の変化を期待できるかもしれない。
