住職の言葉
「今月の言葉」や「法話」一覧ページです。
住職:長谷川岱潤
住職の言葉 - 一覧
2021年8月1日 - ≪法話≫
8月のお話
先日『いのちの停車場』という映画を見てきました。吉永小百合さんが、大病院の救急医療現場から、ある事件をきっかけに金沢の小さな在宅医療の「まほろば診療所」の医師になり、治す医師から寄り添う医師に変貌する中で、様々な患者、様々な死の現場に直面し、最後は自身の父の、壮絶な痛みの病の中安楽死を懇願する父に対し、その用意を調えながら、共に朝を迎えてゆく中で終わるラストシーンは、観ている我々も考えさせられるものでした。
現在日本では「死のタブー化」が始まっていると言われています。家ではなく病院で死ぬことが一般化し、葬儀はできるだけ簡素化され、死別の悲しみを公然と表現することが、病的な不健全なことと見なされ、日常会話で死を語ることがはばかられるという現象が起きていると言われています。
コロナの時代こうした傾向は益々加速されています。映画の中でそれぞれの人が「命の選択」を迫られたとき、最新医療に身をゆだねる人もいれば、医者には何もさせず、静かに夫婦二人で死を迎える人もいます。子どもの癌に新薬を懇願する親を、在宅医療の医師として使わないことを説得する場面は、いのちをみつめる医師の温かい姿を感じました。正しい答えが何かは誰にもわからない中で、それぞれの最後を大事にすることが求められているように感じます。同時に僧侶として、大阪の臨床仏教研究所大河内大博師が言うように、我々僧侶は「弔いの最後の番人」として死と関わって行かなければなりません。死者を主人公にして、遺族の気持ちに寄り添うことが何よりも大事でしょう。「死のタブー化」には何とかブレーキを掛けて行くことを今しなければなりません。
兵庫青山会の篠原医師は、自然な死は必要以上に怖がる必要がないことを力説しています。第一に死ぬ時は脳にエンドルフィンが大量に出て、夢見心地の状態になり苦しくないこと。第二に死ぬときは先に亡くなっている人のお迎えがあり、寂しくないこと。第三に死ぬ日にちを、自分にとっても家族にとってもいい日を、選べるということだというのです。確かに一年先とか数ヶ月先は難しくても、何日かの問題ならば可能だという例を何例も見ているそうです。
第二は正に浄土教のいう「来迎」のことで、お迎えが必ずあることを証明してくれています。
今、「死について」考え、話し合うことの必要さを感じます。そうしなければ「死のタブー化」が歯止めなくどんどん進んでしまうでしょう。それは人間の感情の損失であり、いのちを大事にしないことに進行してしまうでしょう。
合 掌
2021年7月1日 - ≪法話≫
7月のお話
コロナウイルスも変異種の蔓延が始まり、収まる様相を全く見せていませんが、オリンピックは開かれるようです。しかしそのボランティアの人たちへのワクチンもまだ打たれていないとのことで、いったいどこが安心・安全なのか首をひねってしまいます。
さて七月は入谷の鬼子母神真源寺で「朝顔市」が毎年開かれます。
鬼子母は、安産と育児の神として、日蓮宗などでは高く尊崇されています。しかし元々はインド神話に登場するハーリーティー(訶梨帝母)という人肉を喰う鬼女です。彼女の夫はパーンチカで、二人の間には500人から1000人とも言われる子どもがいたそうです。この子どもたちを養うため、ハーリーティーは毎日町に出て大好物の子どもをさらってきては食べていたそうです。町の人は震え上がり、町から子どもの姿が消えたと伝えています。そこでお釈迦様はこのハーリーティーの一番下の子プリヤンカをさらい、隠してしまいました。プリヤンカがいないことに気づいたハーリーティーは、気が狂ったように探し回り泣きわめきました。お釈迦様はそのハーリーティーに子どもを失うつらさを悟らせ、改心させたのです。人肉を食べることをやめたハーリーティーは安産と子育て、育児の守護神となって鬼子母神になったということです。
この逆の話は「阿修羅」の話です。阿修羅は元々は天界の神さま正義の神アスラでした。しかし一人娘を武勇の神インドラに陵辱され連れ去られたことで、インドラに戦いを挑み勝つことのない戦いを永遠に続けたのです。戦いをやめないアスラに対し天界の王は、天界から追放して、魔界にて阿修羅としたのです。その後の姿が愁いに満ちたあの有名な興福寺の阿修羅像です。
仏教では元々がどうであろうと、またその理由がどんなに正しくても、その後どうしたか、何をしているかでその後の姿が決まるのです。とんでもない鬼女であっても、反省し改心をして、その後多くの人々のためになる活動をすれば、それが評価されますが、たとえ神様であっても、また戦いを挑む理由が、多くの人も同情できる納得できること、正しいことであっても、その戦いを続けること、そのことが最悪なことだということです。
このハーリーティーとアスラの物語は、仏教の教えの核心を突いているように思えます。皆さんはどうお感じになったでしょうか?
2021年7月1日 - ≪今月の言葉≫
あさがほをみにしのゝめの人通り 久保田万太郎
入谷の鬼子母神真源寺では六日から八日は朝顔市が開かれる。
鬼子母は、 元は訶梨帝母という人を喰う鬼女、
お釈迦様に依って改心し、すっかり安産と育児の守護神となる。
心を入れ替えれば、鬼も変じて神になる。
2021年6月1日 - ≪今月の言葉≫
童謡かなしき梅雨となりにけり 相馬遷子
どうも雨の日が続くと気持ちも沈みがちになります。
気持ちが沈むと、口ずさむ歌もくらくなります。
童歌や子守歌、童謡、唱歌、などなど、
伝えてゆきたい歌、残したい歌、歌ってゆきましょう。
2021年6月1日 - ≪法話≫
6月のお話
やっと高齢者へのワクチンの接種が始まりました。しかし自治体によってその早さはさまざまで、ここ品川区はかなり遅く、この地区の接種会場はあまりにも貧相で、75歳以上の方でも近くの会場での予約は第1回目が8月でもとれないお粗末さです。役人に緊急性や緊張度が全く感じ取れないのが残念です。
高齢者が予約で問題になっているのが、インターネットによるものです。電話は全くつながらず、インターネット環境にない方には絶望的になっている方が多いと聴きます。お子さんなどがいる方はお子さんが来たときにお願いしているようですが、そうでない方も多いことでしょう。ある役人は、災害時の避難情報もネットで流すと言い、現代はインターネット環境の常備は必然とテレビで豪語していましたが、こういう役人はマイノリティーの存在は無視していいと思っているのでしょうか。悲しい気分になりました。
以前マレーシアに行ったとき、6月18日は観音様の日ですよと教わりました。18日は元々観音様の縁日と言われますが、マレーシアでは6月を特別に限定していたようです。戒法寺の行事の日がみな18日となっているのは、戒法寺には戦前まで春日局奉納の観音様があったからと言われています。残念ながら空襲で燃えてしまったようですが、この地域が5月の東京空襲で全滅したにもかかわらず、ご本尊さまの防空壕に落ちた焼夷弾だけが火を噴かず、奇跡的にご本尊さまが無事だったことを尊ぶできでしょう。
観音様は私たちが「助けて」と声をあげたとき、またたとえ声にならなくても心の中で叫んだときに、助けに来てくれる方です。それは奥さんであったり、夫であったり、子どもであったり、知り合いであったり、または先だたれた親であったり、極楽にいる方であるかもしれません。必ず自分を支えてくれる存在がいることを思い起こさせてくれる存在、それが観音様です。法然上人の弟子親鸞聖人はその日記の中で妻を観音様と呼び、妻は娘への手紙の中で「あなたの父は観音様」だと言いました。当人を前にしたときではなく、陰でお互いに観音様だと言える夫婦はすてきだと思います。自分を支えてくれる人がいること、その方がたとえ亡くなっていても自分の力になってくれると信じられること、その力が今私たちには必要です。
ご本堂では観音様は阿弥陀様の隣にいます。観音様に来てもらいたいとき、阿弥陀様にお願いしましょう。その言葉が『南無阿弥陀仏』です。
合 掌
2021年5月1日 - ≪法話≫
5月のお話
今年は毎年五月の連休の時盛りになる、牡丹も藤の花ももう終わってしまいました。温暖化の勢いには怖いものを感じます。
変異種の勢いが盛んになり、三度目の緊急事態宣言も発令されました。18日のお施餓鬼会のご案内をさんざん迷ったあげく、結局昨年同様お檀家さんに出席頂かないで行うことになりました。何とも寂しくやるせない思いで一杯ですが、ご家族やご本人の不安を思うと、致し方ないことかと思っています。
私たち浄土宗では三つの大事にしているお経典があります。『無量壽経』、『観無量壽経』、『阿弥陀経』です。この中『阿弥陀経』は一番短く十分程度で読めるお経なので、お葬儀の時などには必ず読み上げるお経です。そのお経の解説としてよくお話する言葉が、「今現在説法」と「倶会一処」です。『阿弥陀経』は極楽世界の様子を説明しているお経です。その一番が今現在阿弥陀様が説法しているところということと、必ずまた会える場所という言葉です。今正に阿弥陀様がいてくださり、また先に亡くなった方もこれから逝く人も必ずまた会える場所だと言われるとうれしくなります。
また「極楽」という理想世界はどういうところなのか、『阿弥陀経』では「池中蓮華大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」と書かれています。池の中に車輪の大きさの蓮の花が咲いていて、青い蓮は青い光を放ち、黄色の蓮は黄色の光を、赤い蓮は赤い光、白い蓮は白い光を放っている。いわばあたりまえのことが丁寧に書かれています。でもこのあたりまえが大事なのです。仏さまが理想とする世界は、青や黄や赤や白のものが黄金の光を放っているところではないということです。それぞれが自分自身の色の光を放つところ、それこそが理想だと言っています。漢文にはありませんがインドの原典では、混ざった色の花は混ざった色の光を放す(雑色雑光)とまで言っています。
また極楽には「「共命鳥」という身体は一つでありながら頭と心は二つある奇鳥がいるとしています。実はこの鳥には逸話があり、極楽に来る前この鳥は、二つの頭で鳴き声の良さを競っていました。そして片方がもう片方の声に嫉妬し、毒を飲ませてしまったのです。当然胴体は一つですから二つとも死んでしまいます。そこで次に生まれたとき、相手を活かすことが自分を活かすことだと悟り幸せになり、極楽の鳥になったそうです。
理想の世界を想定することはとても大事です。そしてその理想が安心できる理想なら希望がもてるのではないでしょうか。
合 掌