9月のお話
8月の21日から25日の5日間、京都の総本山知恩院で輪番という、朝と昼にお説教をする当番を行ってきました。
今回私が掲示したお題は「願いに生きるー法然上人鑽仰」というものでした。法然上人鑽仰なんて偉そうですが、私が現在「法然上人鑽仰会」という会の理事長なので、使わせていただきました。 「願いに生きる」の「願生」は、浄土三部経によく出てくる言葉で、まさに仏様の願いを生きることですが、仏様の願いとは、どんな人でも往生できるというものです。このどんな人でもが重要で、お金がある人もない人も、勉強してる人もしていない人も、戒律を守っている人も守っていない人も、善人でも悪人でも、いわゆるどんな人でも往生できるという意味です。
このことを先に言うと誰でもが、それは逆に不平等だといい、努力してる人もしていない人も同じなんておかしいと言います。だから法然上人は順番を大事にしました。「先ずわが身の程を知り、後に仏の本願を信じなさい」と。最初に自分自身を顧みなさい、自分を見つめた時、法然上人自身が「無智の身」「罪悪生死の凡夫」だと言っています。親鸞聖人も「地獄は一定すみかぞかし」とまで言っていますし、鴨長明も「我れ周利槃特に遠く及ばじ」と、お釈迦様のお弟子で最も愚鈍だった周利槃特にさえかなわないとまで言っています。この自己認識があってこそ、仏の願いがうれしく感じられるものです。そんなお話をさせていただきました。
先日新聞のコラムで読んだ話ですが、「日本的なもの」とは何だろうということで、お正月やお盆、そしてお彼岸といった行事の中に、日本的な風景が受け継がれていて、それはとても大事なことだと語っていました。そして日本を作り上げた思想、元の文章は何だろうということで、文筆家の執行草舟氏は『日本書紀』にある神武天皇即位の詔をあげていました。その中に「養正」と、「利民」という二つの言葉を取り上げて、これが紀元前六六〇年から七二〇年に編纂された書に書かれていること、民主主義発祥のイギリスの『マグナ・カルタ』より一四〇〇年も前に「正しさを養い、民衆の利益を』という言葉があること、また聖徳太子の『憲法十七条』一条の「和を以て貴しと為す」や、十条の「他人が怒ったならば、自分に過失があると思い、自分が正しいと思っても、多くの人に順じなさい」など、これはただ仲良くしましょうという生易しい思想ではなく、己の幸せや成功を求めて生きるのではなく、むしろ不幸や悲哀を苦悩も受け入れて、遺恨、怨恨でさえも水に流し、相容れない相手とも和する世界史上類を見ない日本的の根源としています。この精神、今の人はご存じだろうか?
合 掌