2月のお話
今年は午年ということで、馬について調べていたら、馬は農耕でも、スポーツでも、軍隊でも昔から人間とかなり親しいし大事にされてきた動物であるにもかかわらず、なぜか言葉の中ではあまりいい意味で登場しない。”馬の耳に念仏”とか、”馬耳東風”とか、”馬を鹿と間違う”とか…。ここから生まれた「馬鹿」という言葉など最たるものだ。この「馬鹿」にまつわる話としては、平成八年におきた我が宗門の大学「仏教大学」で、石畳デザインの空充秋氏が寄贈した門柱騒動がある。大学の正門に彼は「平成之大馬鹿門」と刻んだから大学側は激怒した。空氏は「学んで馬鹿になり、馬鹿になって偉くなる。それが平成之大馬鹿門を通る若者だ」と主張されたのだが、大学側は「見る人すべてには作者の意図はわからない」として、結局門は作者が持ち帰ってしまった。もし門があったら話題になり、入学志望者は増えていたのではないかと残念である。
今月28日に増上寺で私が理事長をしている法然上人鑽仰会が月刊誌『浄土』が創刊1000号になったことを記念して、増上寺法主の小澤憲珠台下と、鎌倉円覚寺派管長の横田南嶺老師と、仏教学者の平岡聡師で鼎談を開催する。そのお招きしている横田南嶺老師の小冊子『「ばか」になる修行』に、横田老師の師匠小池老師がよくおっしゃっていた言葉として「桃栗三年柿八年、柚子は九年で実を結ぶ。梅は酸いとて十三年、みかんの大ばか二十年」を紹介し、「禅の修行は年数がかかる。大ばかになるまで修行しなければならない」と言い、修行を始めた間もないころ、横田さんは小池老師に「ばかになるのが禅の教えならば、何も勉強しなくていいのですか?」と聞いたところ、「何も勉強しないのはただのばかだ。勉強したうえで更にばかになる修行をするのだ」と言われたという話が載っていた。
法句経に「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながらみずから賢者と思う者こそ、愚者だと言われる」とある。「ばか」という言葉、これは人に向かって言う言葉ではない。人向かって言えば蔑視語で使ってはいけない言葉である。しかし自分に向かって言う言葉としては大事な言葉になる。わからないことは、勉強しないとどこがわからないかがわからない。学んで初めて自分がわかっていなかったことがわかる。そんなことを学ばせてもらった。
また、この「ばか」という言葉、元々は仏教語のようだ。インドの言葉「マハー」からできた音写語「摩訶」からの言葉で偉大なとか、すぐれたいう意味である。確かに「ばか」は”ばか力”とか、”ばかにうまい”という使い方もしている。「ばか」という言葉もなかなか奥深いと感じられた。
合 掌
