5月のお話
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先月は地方自治の長が相次いで差別発言や、ハラスメントを起こす不祥事が続き、3人もの長が辞任されました。私は現在浄土宗人権啓発委員会の委員長でもあり、興味深く見ていました。
最初の静岡県知事の職業差別の発言は、目の前の人を持ち上げんとするため、いない人を差別する悪質なものでしたが、月末に露見した東郷町長のパワハラ、池田町長のセクハラは、何年にも及ぶ悪質な犯罪で、行為者一人の問題ではなく、取り囲むその社会全体の犯罪だと思いました。
たとえ告発者がいても、それを握りつぶす構造的権力の問題です。これはハラスメントの問題では必ず起こることです。ハラスメント問題は、地位のある人が部下など反論できない人に対して起こす犯罪で、地位のある人をかばう人が必ず出てくるものです。実は宗教界でも今年14年に及ぶセクハラ、パワハラが明らかになった事件があります。まだまだ調査中とのことですが、この処置を誤ると、宗教教団も大変なことになるでしょう。組織はしっかり真摯に向き合って、加害者がどんなに偉い人であろうとも、被害者の心に向き合った結論がでることを望みます。
先日香取貴信さんの講演記事に感激しました。彼はあの世なんてないと思っている人と、あると思っている人がいるとし、自分はどちらでもいいがと前置きして、もしないと思っている人は、きっとこの世がすべてなのだから、他人の迷惑など関係なく、自分の好きなように生き、エゴを通した一生を終わるだろうとしています。実際あの世がなければそれで終わるでしょう。けれど、もしあの世があったら、死後きっと彼は思うでしょう、「あれあったんだ、やばい地獄が見えてきた」と。
またあの世があると思っている人は、人のことをまず考え、自分のことは後回しにしても、世のため人のために尽くす一生を終え、亡くなったとき、あの世がなければそれで終わりだから感想を持つこともないが、あの世があったならば、そこで両親や友達と会い「いい人生だったね」と褒められ、先祖と楽しく暮らすことだろう。そして今この世を生きるときも、きっとご先祖はどんな自分でも応援してくれると思え、力強く生きられると。
つまりあるか、ないかではなく、あると思って生きた方がいいということです。
たとえどんな地位になったとしても、人間自分の地位に溺れることなく、恥ずかしくない生き方をする。それにはその根本にあの世があるという意識が必要なのです。
合 掌