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5月のお話

 戒法寺ホームページをご覧頂きありがとうございます。
 先日テレビで新宿コマ劇場前の若者達を取材する番組がありました。親の虐待から逃れて家出してきた一人の少女を追っかけた取材でしたが、最終的にその少女が保護施設を飛び出し、夢もなくして自分の身体を売ってその日の宿泊代や食費を稼いでいる様子に、何ともやるせない気持ちになりました。
 今私たちの国は、多くの人々は幸せの要素と言われる「福・禄・寿」の、長寿も、お金もそれなりにあっても「福」はないといわれています。ましてや格差の激しい現実は、その日の生活さえままならない人々を作っているようです。
 そして共通認識として、宗教のない生活の中で「老・病・死」の認識が、老はポンコツ、病は故障、死はゴミ化になってしまったようです。20年以上前ですが、検事総長をされた方が書いた『人は死んだらゴミになる』という本がありました。かなり衝撃を受けた本でしたが、どこからも批判が出る こともなく、今その考え方は一般化してしまったのでしょうか。
 この人間を商品化する価値観によって、生きてる内、それも元気な内が全てで、老病死にマイナス価値観しか見いださない考え方は、まさに現代の「今だけ、金だけ、自分だけ」の三だけ主義となり、詐欺や、強盗、売春何でもOKの若者を作っているように思います。 人間は商品ではありません。英語の「Old」は物につくとポンコツの意になりますが、人につくと智慧ある人になります。「老は一日にして成らず」、中国語の「老」には敬意を表す意味しかありません。「病」も欠陥であっても、それがそのまま長所になることもあります。「死」はゴミではなく、「お浄土への往生」と信じることで、「老・病」を含めた「生」そのものが変わってしまうはずです。「死後」を見つめることで、悪事ができなくなるのです。
 生きている時こそが全てと考える考え方は、一見合理的で正しいように思えるのですが、永い人類の歴史の中ではそんな考え方をする人は、ほとんどいなかったようです。多くの人が、死んでから先のことを思いながら生きていたようです。本当の幸せは死んでから先にあることを信じていたから、現実の理不尽さや、運の悪さも我慢できたのかもしれません。何があっても、悪事に走らずにいたのは、死後の幸せが信じられたからです。
 宗教のもつ意味、大事さを思い、宗教家は今の幸せを説くのではなく、死後の幸せをもっと説かなければならないことを新宿の少女を見つめながら痛切に思いました。死後の幸せを思うことが今の生き方を変え幸せになることを信じて。

合 掌