6月のお話
先月中旬「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれた、ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏が亡くなった。89歳でした。彼は以前「私は質素なだけで、貧しくはない」とおっしゃり、2012年の国連演説でも「貧乏とは少ししか待っていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないことである」と言っています。この言葉は、まさに仏教の教える「餓鬼」の定義です。
仏教の論書の中に、「餓鬼」とは三種あり、一つは無財餓鬼、いわゆる何も所有していない、そのものずばりの餓鬼です。二つ目は少財餓鬼、少しは持っているが、到底満足できない見るからに餓鬼です。そして三つ目は多財餓鬼、充分に待っているが、満足できず、際限のない欲望の餓鬼です。「餓鬼」つまり欲望とは状態ではなく、そのものの心をさします。河上肇の『貧乏物語』の中に「人は水にかわいても死ぬが、おぼれても死ぬものである」というセリフがあるそうですが、貧しさを論ずることは、同時に豊かさを論じることであることを語っています。
ムヒカ氏は生前、「私たちは経済発展するために、この地球にやってきたわけではありません。」と語っていました。私たちに生きることの意味や、幸せとは何かを示してくれた方でした。
少し前の話ですが、ある方が同じカップラーメンのCMを日本と韓国で見て、その違いに愕然とされていました。日本では兄弟が取り合いをして、「こんなにおいしいカップラーメン」と言っていたのに、韓国では兄弟が譲りあいをして「こんなにおいしいカップラーメン」としていたのです。この話を聞いて「負けた」と思ってしまうは私だけでしょうか。
戦後80年、世界の極貧国としてスタートした韓国が、今や日本にも近づく経済大国になっています。それでいてこの日本人との感性の違いはどうしてなのでしょうか?最近のニュースを聴きながらも、何か日本人が変わってしまったような気がしてしまうのは私だけでしょうか?
昔、ひろさちや氏が何度もしてくれた話に、一つのケーキを兄弟で二つに分けて食べる話があります。兄がもらってきたケーキを母親が弟と二つに分けて食べなさいと言い、お父さんが二つに分けて食べる理由を兄弟に問います。兄は弟がかわいそうだからと言い、弟は今度僕がもらってきたら半分あげるからと言います。 お父さんはその両方とも違うと言います。かわいそうでは、けんかしていたらあげなくなり、お返しを期待しているのでは仏教の布施の心ではなくなります。お父さんの気持ちは、二人で食べたほうがケーキがおいしいと思える子になってもらいたいからだと言う話です。そしてこの心が布施の心だと言っています。
合 掌