1月のお話
新年明けましておめでとうございます、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
戒法寺ホームページをご覧いただきありがとうございます。新年のご挨拶は弟子の岱忠が担当させて頂きます。
年改まり令和七年がスタートしました。歴史ある「戒法寺通信第85号」の新年の冊子編集を初めて担当させて頂きました。編集のプロである長谷川住職と違い、大学時代少しだけ学術書などの編集を手伝う程度のことしかしていませんので、皆様にお見せするにはほとんど素人でございます。不手際が生じることが多いかと思います。皆様のお力・お知恵をお借りしまして、親しみやすく、よりお寺に来たくなるような雰囲気を作っていければと考えております。
さて、正月と言いますと「書初め」が2日に行われることが一般的です。書道や茶道、三味線などのお稽古ごとは「1月2日から習い始めると上達する」と言われていて、この日を初稽古の日とする習い事は多いようです。また、平安時代の「吉書の奏」は、単純に縁起の良い日を選んで行われていましたが、室町時代の「吉書始め」は、1月2日に大々的に行われていたので、その日にも因んでいます。
「言は心の声、書は心の画」と中国前漢時代末期の哲学・文学の学者が「書、心画也」から因んで言われているとおり、書は書く人の心の中を見せてくれるのではないでしょうか。
また、いくら書いた字が稚拙であっても、心清らかな人が書いた字は澄んだ線をしているものなのだといわれます。ただ現実には「上手い字」「上手な書」に対するあこがれもあり、心の持ちようとはあまり関係なく「美しい字を書きたい」と思う人が当然たくさんいるかと思います。かくいう私もその一人です。
日本では、書道は「手習い」または「お稽古」といいますが、日本人独特の文化である「茶道」や「華道」と同様、習うことからはじまって、一歩一歩より高いところ、より深いところへとたどり着く「道」を究めるという伝統があると思います。現代の教育では、個性を尊重しそれに重きを置きすぎているのかもしれません。個性は、「習う」ということがあってこそ生まれてくるものであり、学ぶはまねるから始まるものです。日頃の精進が必要であり、その積み重ねの上に本来持つ個性が生まれでてくるものでしょう。
「美しい字を書く」だけでも大変なことですが、自身の思いを現す為には日々そうとう努力しなければ到達できないのだと思います。僧侶として、筆で書くということは当然なことなのですが、私自身まだまだ皆様にお見せできるレベルではないと痛感しております。
今年は巳年です。自身の形を次のステップへと成長させることは、まさに蛇が脱皮して成長していくことと同じことだと思います。立ち止まり、右往左往しながらも自身も脱皮していけるよう、成長できるような年にしたいと思います。
南無阿弥陀仏 合 掌